実は、この病院は、父と母も癌で入院した所。
母は肺癌、父は脳腫瘍、父の脳腫瘍はとても珍しく、是非、研究もさせて欲しいと、そして亡くなるその日まで入院させて貰えました。
1年間の闘病生活の中で入退院を振り返り最後まで看取って頂きました。
そして亡くなった時に検体として脳を欲しいと、医学雑誌に載せたいとの事。
後の医療のためになるのならと、承諾しました。
先生も看護師さんにも良くして頂いて帰りは裏口まで見送ってくださいました。
父はこの街の出身で、戦後まだ小さかった父は赤痢になり、この病院で治療したとの事。
なので我が家では、何かあったらここの病院って当たり前のように来てました。
時代は、変わり、大学病院には、紹介状が無ければ、簡単には、かかれなくなり、子宮頸がんの疑いありと、クリニックで診断された時、迷わず、この病院を指名しました。
父が亡くなってから、20年経ちましたが、立派な病院で、外来は、雰囲気が変わり、でも病棟は、何処か懐かしく、父もこの景色を見ていたんだなと、なんとも懐かしい様な不思議な気持ちです。
父は、良く親戚が集まった時に、私のことを、目の中に入れても痛くないだろうと親戚の人達から言われていました。
実際、その通り、自分でも愛されてると常に感じていました。
生まれながらに、足が不自由だったのもあり、不憫だったのでしょう。
その反対に、母は私を何処かよそよそしく、私が居ない様な素振りでした。父とは違い目に入れなくないって感じで、子供ながらに、私がこんな身体で産まれたせいで、愛されないんだと、自分を攻めていました。
母の正面からの笑顔は記憶に無いくらい。
なので父が亡くなってから、心の支えが折れた様に、空っぽになり、ただただ泣きくれました。今でも、父に会いたい。
父を亡くしてから、自分は、究極なファザコンだと気付かされました(笑)