「雄輔に忘れられない人が居るのは知っている。
だけどあなたがその人を思い出して寂しがっているときに傍に居てあげたいの」
その人は臆することなく、雄輔の瞳を真向かいから見詰めながらそう告げた。
はっきりとした人だった。
雄輔から全てを、心のコトも身体のコトも打ち明けられて、なおも彼の逃げ場になろうとしてくれた。
見返りは求めず、心が望んだままに生きている。
そんな人だった。
迷ったけど、直樹から貰ったメールを見せることにした。
最後のだけは見せられなかったが、彼女は全てを時間をかけて丁寧に読んでくれた。
「会いたかった、この人に。会って、この人から雄輔のことを聞きたかった」
そう呟いた彼女の頬に、一筋の涙が零れていた。
「きっとこの人が雄輔の隣に居たら、私は雄輔に惹かれなかったでしょうね。
いちゃつくなよーって、意地悪なツッコミを入れて幸せな二人を眺めていたでしょうね」
そうゆうものなのか。
不思議な気がしたが、間違った事を言ってるようにも思えなかった。
彼女と一緒になることを決めるのに時間は掛からなかった。
隣にいても自然と馴染むように居てくれたのがよかったのかも知れない。
諦めかけていたけれど、子供にもすぐに恵まれた。
「あの人の名前をつけてあげようよ。優しくて人の痛みが分かる子になるわ」
良いの?と聞くと、息子に嫉妬なんてしないわって笑われた。
その捌けた雰囲気に、いつだって救われた。
大事にしたいって心から思った。この幸せを守りたいって。
だけど、普通の幸せを維持するのは、とてつもなく困難で大変で。
二人の子供は、言葉が話せなかった。
原因は、はっきりしない。
生まれてすぐに高熱を出したときの影響かも知れないし、先天的なものかもしれない。
しっかりした検査をするには幼いので、もう少し様子を見ながら育てようということになった。
長期の治療を受けていた自分のせいかもしれない。
そんなふうに密かに落ち込んでいた雄輔にも、彼女は明るく語りかけた。
「直樹は私たちの声は聞こえてるのよ。私たちが『大好きよ』って言ってあげるのは分かるの。
親の愛情をちゃんと感じて受け止めれるなら、多少の障害なんて問題ないわ」
ねー、なおちゃん。
そういいながら彼女は抱き締めた直樹に頬を摺り寄せた。
幼いわが子は嬉しそうに顔を綻ばせて、小さな手を一生懸命に差し出していた。
普通の幸せというのはとても壊れやすく不安定で。
だけど何を幸せと思うかは、本人たちにかかっていたのだった。
ノック、オレ、幸せになったよ。
まだちょっとぎこちないけど、ちゃんと幸せに生きているよ。
心の中で彼に語りかけると、ほっとした優しい感覚が溢れて癒されたような気分になる。
ずっと遠い空から見守っていてくれるのかもしれない。
頑張った雄輔を、そっと褒めてくれてるのかも知れない。
彼が見てくれてると思うから、頑張って前向きに生きてこれた。
きっとこれからもそうやって生きていくのだろう。
守らなくてはいけない人たちに、守られながら。
懐かしいペンションには五年ぶりくらいに訪れた。
前日に熱を出してぶっ倒れた嫁さんを置いてきたのは気が引けたが、ここで来ないと次の予定の見通しがつかなかったので無理でも来てしまった。
くやしい、私も行きたかったのに!
彼女は熱ではない原因で顔を真赤にさせながら雄輔と直樹を見送ってくれた。
これはお土産を奮発しないと収まらなそうだぞ(^^;
車でペンションに着くと、待ちきれない剛士に出迎えられた。
万全の笑顔が懐かしくって仕方ない。
「ひさしぶりー!」
「お前、挨拶来るのがおせーよ!!」
その遠慮のない言動が嬉しい。
早く彼とゆっくり話したくて、必死にチャイルドシートから直樹を取り出す。
これの着脱が、実は相当苦手だった。
「お待たせ!うちの直樹くんでーす」
まだ片腕に納まってしまいそうな直樹を抱き上げて、ようやく剛士との対面を果たす。
急に外に出された直樹は驚いたのか、雄輔にヒッシ!としがみ付いた。
「うわっ、ちいせぇ!!まだ3つ、だっけ?」
「正確には2つ半。かわいーでしょ(*^^*)」(←オヤバカ)
「うちはいろさんでさえ年中さんだからなー。やっぱもう一人、てか男の子が欲しいわ」
まだ作るの?とどうやら本気らしい剛士に雄輔は苦笑いを浮かべた。
日本の少子化はここで食い止められているのかも知れない。
「ねー、抱かせてもらっても良い?」
「それは良いけど、人見知り激しいから泣かせないでね」
「ちょっとぉ、こっちは子育てのプロよ?何人育てたと思ってんの?」
そうなのだが、直樹の人見知りは伊達じゃない。
言葉が遅れているから尚更なのかも知れないが、親以外にはまるで懐かないのだ。
ジジババにさえ抱かれると泣いてしまうので、せっかくの初孫を前に口惜しそうに遠巻きに愛でているくらいなのだ。
ココにきたら子供が多いので、少しは他人に慣れてくれるかなと淡い期待もしていた。
泣き出さないかと恐る恐る剛士の腕に直樹を預ける。
急に父から引き離されてむずかった直樹だったが、あからさまに嫌がるような仕草は見せなかった。
成行きを楽しそうに見守る父と、初対面の派手はオヤジの顔を不思議そうに見比べている。
ちっちゃな身体。頼りない重さ。
子供体温が仄かに抱いた腕や胸に伝わってきて、剛士は父性本能が全開になりそうだった。
余計は物を見ていないまっさらな瞳。
潤んで真っ黒に輝いている。
白目はまるで薄い水色を混ぜたように聡明に澄んでいた。
「なーおちゃん、始めまして。剛にぃでちゅよ♪」
「おいおっさん、『剛にぃ』はいくらなんでも若作りでないか?」
「いーじゃんかよぉ。剛にぃでも剛パパでもどっちでも良いけどさ」
剛パパでは余計な混乱を招く、ということに気がつきもしないで、剛士は小さな直樹の揺れてる瞳を覗き込んで、ねー?って笑いかけた。
可愛くって仕方ない。
そんな気持ちがよく分かる、甘い笑い方だった。
普段ならとっくに泣き出している直樹も、大人しく剛士に抱かれたままで彼を見上げている。
緊張してよく事態が分かってないのかも知れない。
じぃっと剛士の三日月の形ににやけた眦を必死に見詰めていた。
パシン、と不器用に開いた手の平で剛士の首元をひっぱたいた。
触れようとしただけかも知れないが、力の加減が出来ない子供なので叩くような勢いがある。
イテーよ、直ちゃん。
苦笑すら蕩けた甘い顔で剛士が呟いた、そのときだった。
「・・ぁけにぃ・・?」
雄輔に全く似てないぽったりとした唇が、舌足らずな声を発した。
正しい意味を成すには未熟な声だったが、それは言葉になろうとしていた。
「な、おき・・?」
「いま、なんて・・・」
思わず雄輔と顔を見合わせる。
大人たちの緊迫した感情なんてまるっきり通じてないのか、直樹はにへっとした笑顔を浮かべて剛士の頬に手を伸ばした。
「たーけに」
今度は間違いない。
はっきりと、直樹は自分の意思で声を、言葉を発したのだ。
「ちょっちょっちょっ、ちょっとぉ!なんでそっちを先に呼ぶのよ!
お前のとーちゃんはオレなんだから!!剛にぃより先に父ちゃんでしょ??」
慌てて剛士の腕から直樹を奪還して顔を引っ付けるが、直樹はきょとん・・・とした顔をして、まるで雄輔の気持ちを察してくれてない。
「なおき、『とーちゃん』。ほら、言ってみ?
とーちゃんが無理ならパパでもおとんでもおとーさまでもオヤジでも良いから、ね?」
まるでご機嫌取りの様相で直樹に微笑めば、つられたようににっこりと笑ってみせる。
もう一声!と祈るように必死に見詰めていると、その迫力が直樹に伝わったのだろうか。
「・・・ちゃん!」
思いっきり機嫌よく、その一言を雄輔に向けて叫んだのだった。
「『ちゃん!』って。お前はイクラちゃんかい!!」
「え~、子連れ狼のダイゴロウじゃないの?」
「つーのさん、それ古っ!
てか、嫁さんにも教えなくっちゃ!あれ、携帯?あ、車ん中だ!!」
バタバタと動き回る雄輔を、親になっても落ち着きがねーなと剛士は呆れ顔で眺めていた。
「ユースケ。直ちゃんはボキが預かってるから携帯探してらっしゃい」
片手に直樹を抱えたままでは探し物もしづかろう。
雄輔は素直に剛士の腕に直樹を預けると、後部座席に置いてある荷物を引っかき回し始めた。
あれで見付からなかったら、ペンションから電話させるか。
やれやれと髪を掻き揚げると、マネをしたかったのか腕に抱えた直樹に髪を引っ張られた。
「なおちゃん、イタいイタい。そゆことしないで」
これ以上悪戯されないように身体を離して直樹の無邪気な顔を、メッ!と睨み付けた。
もちろん形だけなので、直樹は全く怖がらないで楽しそうに笑ってる。
これが人見知りだってんだから、みんなどーゆーふうに接してたんだ。
「ねえ直ちゃん、さっきのあれは、俺の空耳とかじゃないよね?」
上手く開けない小さな口の中に篭るような言葉だった。
単語の最後のほうになって、やっと人の耳に達するような声になったのだ。
だけど顔を引っ付けるようにしていた剛士には、口篭っていたその前から聞こえた気がした。
『たーいま、たぁけにぃ』
「・・・直樹、なのか?」
剛士の問に、直樹は答えてくれない。
それどころか何を問われているのかも分からず、大きな瞳をきょとん・・・とさせて剛士を眺めている。
こんなふうに誰かの面影を被せて思い込むのは、この子の将来に良くない。
きっとこの子が持ってないものまで望んでしまう。
でも・・・・!
小さな頼りない身体を、ぎゅっと力を込めて抱き締めた。
大人しく腕の中に収まっている直樹は、あやされていると思っているのか嬉しそうな笑い声をあげている。
胸の中で響くその声が、くすぐったく剛士の心を揺さぶる。
「おかえり、直樹」
その子にしか聞こえないように、小さく耳元に囁いた。
囁きながら、涙が零れた。
小さな直樹。
今度こそあいつを本当に幸せにしてやってくれ。
ずっと離れずに、あいつを助けてやってくれ。
そして、お前自身が誰よりも幸せになってくれ・・・。
「つーのさん、電話繋がった!!あいつ、全然オレの言うこと信じてくれない!!」
急に直樹が話したなんて言い出したので、冗談かどっきりだと思われているようだ。
悔しそうに地団太を踏む雄輔に気が付かれないように涙を拭くと、剛士はわざと居丈高な笑みを浮かべて振り返った。
「それってお前の日頃の行いが悪いせいだろ?」
「もー、そんなことどーでも良いから!!早く直樹を連れてきてよ!!」
「はいはい、困ったやつがおとーたんで直ちゃんもたいへんでちゅねー」
「つーのさん!!!」
「ちゅーかお前が来いよ!」
あ、そか。
慌てて携帯を持った雄輔が剛士の元に駆けて来る。
直樹はそんな父に向って手を伸ばした。
とっても恋しくて仕方ない人が迎えに来てくれたときのように、
幸せであったかな笑顔を稚い顔いっぱいに浮かべて。
終り。