朝の訪れが静かに室内に忍び込むころ、眠りが浅くなって意識と無意識の狭間を漂うことがある。
生まれたばかりの陽が瞼の上にそっと落ちてくる時間、少しだけ覚醒に近づく。
混沌としたままで微睡むその時間が、雄輔は一番好きだった。
辺りに満ちてくる空気が、まるで直樹がいてくれたときとそっくりなのだ。
優しくて柔らかくって暖かで、でもどこか凛とした静けさが潜んでいる。
片足を夢の世界に突っ込んだままの心許ない状態だから、尚更そこに直樹がいてくれるような錯覚に捕らわれてしまう。
うたかたの幻が見せる世界と分かっていても、雄輔が心から安堵できる数少ない時間だった。
溢れてくる穏やかな空気に身を委ねていれば、直樹の体温を思い出さずにはいられない。
触れるとまるで胸の中に小さな灯が灯るような、そんな彼の暖かさが蘇る。
ずっと、この時間の中にいれたら良いのにと、浅はかな願いが頭を過ぎる。
ふいに、額に掛かる前髪を何かが掠めた感覚をおぼえた。
窓から風でも吹いてきたのだろうか?それとも虫でも紛れ込んだのか。
いや、この季節だ。
窓は昨晩のうちにきっちり閉めてもらったし、虫なんかが飛んでいるような場所でもない。
そんなことを考えていると少しずつ意識が覚醒のほうに寄って行ってしまう。
もっとこの時間独特の空気に、微睡んでいたかったのに・・・。
雄輔は物憂げに寝返りをうって姿勢を変えた。
ああでも、今日はまだ大好きな空気が消えない。
直樹が真摯な眼差しを捧げてくれるときと似ている、この守られているような縋られているような空気はずっと自分を包んでくれている。
なんだか、すごく幸せだ。
うっとりとした心持で瞼を微かに持ち上げた。
まだ何にも染められてない真っ白な朝日が、徐々に部屋の中に満ち始めていた。
さらさらと差し込む、まっさらな光。
その揺れる強弱の間に、直樹の姿があった。
いとおしげに雄輔を見詰めながら、儚いくらいに柔らかく微笑んでくれる。
おぼろげにしか見えないけれど、幻や錯覚なんかじゃない。
確かに直樹が、そこで、すぐ隣で微笑んでくれている。
「の、く?」
問いかけると、彼の口元に晴れやかな物が浮かんだ。
やっと気が付いてくれたね。そんな言葉が聞こえてきそうだった。
「もしかして、ずっと居てくれたの?
おかーさんやおにーさんと帰らないで、ずっとオレの傍にいてくれたの?」
彼の光に霞む指先が、雄輔の髪を優しく撫でた。
はっきりした感触は伝わらなかったけれど、彼が与えてくれた温もりは感じられた。
確かにココに居る。
人としての姿は失ってしまったかも知れないけれど、確かに直樹はココに居てくれた。
隣で、ずっと雄輔を見守っていてくれてたのだった。
ゆるゆると直樹に手を伸ばしたけれど、いくら雄輔でも彼を捕まえることは叶わなかった。
それでも直樹はそこで微笑んでくれていて、雄輔を愛でるように眺めていてくれて。
心に覆いかぶさっていたものがひとつひとつ剥がれて、やっとまともに呼吸が出来たように思えた。
実体のない直樹を捕まえる事は諦めて雄輔が手を引っ込めると、直樹は申し訳無さそうに眉を寄せて悲しげな表情を浮かべた。
そんなふうに自分を責めなくても良いのに。
「違うよ、ノク。何も返してくれなくて良いんだ。
オレは、ここに居るお前を感じれたことだけで満足なんだから」
ニコって笑うと、直樹はますます泣きそうに顔を歪めてしまった。
伝えたくても声にできない唇が、もどかしげに震えている。
「ノク?」
問いかけた言葉を否定するように、彼は眼を伏せて一度だけ首を振った。
ゆっくりと身を引くように雄輔から距離を開ける。
背中で白い羽が揺れていた。
大きく広げると、白い羽の欠片が彼の周りを不規則に軽やかに舞った。
まるで、あのときの雪みたいだ。
初めて直樹を見つけたとき、あんなふうに彼の元に沢山の雪が降り続いていた。
止め処なく降り頻る雪の合間に眼を走らせて、必死に自分を探してくれていた直樹。
不安げに、でも見落とさないように、一生懸命に雄輔に出会おうとしてくれていた。
もうそのときから、恋は始まっていたのかも知れない。
後から起こる全ての出来事は、芽生えた感情の確認作業でしかなかった。
映し出される日の光が強くなる窓をバックに、直樹が切なそうに微笑んだ。
差し込む光量が強すぎて、不確かな直樹の姿を掻き消してしまいそうだった。
目を凝らして直樹をもっとよく見詰めようと試みる。
霞む彼の輪郭、柔らかな曲線を描いていた頬に、涙が流れるのを見逃さなかった。
「ねえ、なんで泣いてるの?なんでそんな遠くに居るの?
ずっと一緒に居てくれるんでしょ?もうオレたちはどっちかを待ってたりしなくて良いんでしょ?」
微笑みは、決して消さなかった。
でも彼は静かに首を振って、これ以上雄輔の元に居れないのだと暗黙に伝えていた。
ふわ・・・っと直樹の背中の羽が広げられる。
どんどん直樹の姿が光に透けておぼろげになっていく。
やっと彼が隣に居てくれたと気が付いたのに、また雄輔の指の間からするりと逃げて行こうとしている。
「待って!まだ行かないで!」
イヤだ、もう直樹と離れる瞬間を味わいたくない。
彼を失うくらいなら、他の全てを投げ出したほうがよっぽどマシだ。
「行くんなら、どーしても行かなくちゃいけないんなら、
オレもノクと一緒に・・・・!」
心のままを叫ぼうとした、けれど。
それ、以上、を言葉に出来なかった。
諌めるように直樹が、雄輔を凝視している。
そんな弱音は聞きたくないって、真っ直ぐな瞳が語りかけている。
欲しいものは、目の前にあった。
手を伸ばせば捕まえられそうだった。
それがもう幻であると、雄輔だって知っていた。
今の時間は神様がくれたおまけなんだって、そう思うことが正しいってことくらい分かっていた。
「困らせて、ごめんね。
もう寂しさに負けないから、だから最後にオレの言葉を聞いて、それを持ってお空に帰って」
直樹がなあにって首を傾げる。
大好きな仕草のひとつだ。
さんざん人の事を子供っぽいって言うけど、直樹だってこんな稚いことをする。
思い出せたよ。お前が好きで、お前の事を思うだけでオレがどんだけ幸せになれたか・・・。
「ノック、好きだよ。
恋だか愛だか分かんないけど、そんな区別できるほど頭も良くないし余裕も無いけど、
ノックのことしか考えらんないくらい、ノックが好きだった。
ううん、ノックが好きです。君がいつでも一番です。
今までもこれからも、ずっとずっとノックがオレの心の一番上にいます」
言い切ると、直樹が蕩けるような笑顔を浮かべてくれた。
知ってたよって、薄紅色の唇が動いたように見えたのは、都合のよい錯覚だったのか。
真実は分からないけど、雄輔は満足げに微笑む事が出来た。
直樹は、安心したように瞳を閉じて、
ゆっくりゆっくり全てを噛み締めるように口元を緩めて、
そしてまだ何にも染まってない朝の光の中に、その姿を溶かすように消えていった。
雄輔の手の平に、一片の羽を残して。
続く。