全力疾走なんて、最後にしたのは何時だったろう?
縺れそうになる脚を無理に走らせて、雄輔はその廊下の先を目指していた。
一刻も早くと気は逸るのに、思うように身体が動いてくれない。
じれったさと焦りに突き動かされて、とにかく脚を踏み出した。
「上地さん!」
よろけて壁に手を付くと、親太郎が心配して肩を支えてくれた。
そうだ、親太郎が一緒に来てくれたんだ。
忙しくて病院を離れることが出来なかった孝太郎の代わりに、親太郎が運転手役になって雄輔をココまで連れてきてくれたのだ。
始まりは孝太郎だった。
冷静沈着な彼には有り得ないような動揺した様子で病室に駆け込んできた。
あんな孝太郎、見た事がない。
強張った顔をさらして、震えた唇は正しい言葉を載せる事が出来ないでいた。
「くっそ!」
親太郎の手を振り切って、力を振り絞って走り出す。
彼は全力で急いでいるつもりだろうが、周りから見たら喘いでいるような哀れな走りだった。
目指した冷たいドアを開ける。
部屋の中にいた人が、一斉に雄輔を振り返った。
途端に膝から力が抜けて、その場に蹲りそうになる。
耐えて、一歩一歩前に踏み出した。
「上地くん・・・」
そう呟いたのは、つい半月前に会った人だ。
初対面だけど、沢山話をさせてもらった。
あったかで謙虚で、純朴とした人たち。
そんな人たちに見守られるように、直樹は小さなベッドに寝かされていた。
直樹の寝ているベッドを、みんなで取り囲んでいたといったほうが近いのかもしれない。
「ノック・・・!」
そっと、彼の隣を譲られた。
ふらふらとした足取りで、なんとか直樹の元まで辿り着く。
そして目を閉じたままの彼の頬を両手で包み込んだ。
あのときと同じようにしているのに、指先に返る体温は冷たくて。
名前を呼んでも笑顔を見せてはくれなくて。
もう、何も雄輔には答えてくれなくなった直樹が、そこに横たわってるだけだった。
「なんでぇ!オレが迎えに来るまで待ってるって、約束したじゃんかぁっ!!」
叫ぶと、涙が溢れて止まらなくなった。
いっぱいいっぱい泣いたけど、こんなに痛い涙は初めてだった。
まるで心を絞られるように、痛くて苦しい涙が瞳から次々と溢れてきた。
ノック、ノック、ノック。
あんなに笑ってくれたノック。
たまに寂しそうにしていたノック。
大好きだよって言ってくれたノック。
ノックが死んじゃった。
待っていてくれるって言ったのに、オレの生きる意味になってくれるって言ったのに。
ノックがずっとずっと遠いところに先に行ってしまった。
「どう、して・・・?」
彼の躯にすがるように泣き崩れる雄輔に、見守っていた剛士がそっと手を添えた。
見上げれば彼の目も赤く腫れている。
「直樹、街に買出しにいったときに事故に巻き込まれたんだ。
飲酒運転の車が信号待ちしてた歩道に乗り上げてきたって。
事故を見ていた人の証言だと、直樹は逃げようと思えば逃げれる状況だったらしい。
だけど近くに居た親子が逃げ遅れて、その人たちを庇って、それで・・・」
そこまで伝えると、剛士は悔しそうに唇を噛み締めて眼を伏せた。
他の人からも忍び泣きする声が聞こえてくる。
今更誰を恨んでも憎んでも同じだ。
どんな感情を爆発させても、もう直樹は帰ってこない。
それだけは、もう捻じ曲げようない現実になってしまっていた。
「ノクゥ・・・」
しゃくりあげたまま、彼の亡骸に縋りついた。
もうどうにもならない。雄輔にはどうすることも出来ない。
ただ泣くことしか許されていることはなかった。
「ゆっくりお別れをさせてあげたいんだけどさ、これから直樹を静岡まで運ばなくちゃいけないんだ。
お父さんたちはお前が来るのを待っていてくれたんだぞ?感謝しなさい」
剛士の声がいつもより焼けて掠れていた。
きっと自慢の喉を台無しにするくらい、彼も喉を振るわせて泣いたのだろう。
必死に嗚咽を堪えて、雄輔は立ち上がると直樹の両親と兄に頭を下げた。
邪魔なんか出来ない。
自分は直樹の何でもないのだから。
あのときよりひどくやつれた母が手を握ってくれた。
直樹と面影の被る兄が、肩にしっかりと腕を回して抱き締めてくれた。
そこに言葉はひとつもない。
だけどどんなに心が傷付いているか、同じ傷を分け合うお互いをどれほど慈しんでいるか、
全てが通じるようで、尚更涙が溢れてしまった。
直樹は丁寧に毛布で包まれて、兄の運転する車に乗せられた。
座席に座るように乗せられて、まるでただ家に帰るみたいだった。
彼の親は車が走り出しても何度も振り返って頭を下げてくれた。
もう二度と会わないかも知れない。
ほんの一時しか一緒に居れなかったけれど、オレは彼方達も好きでした。
直樹を育ててくれた彼方達が、直樹をずっと愛してくれていた彼方達が、
とてもとても大好きになりました。
そんなことを思いながら、涙で霞む視界で彼らの車を見送った。
もう、何が起こっているのかよく分からない。
涙腺が壊れたみたいに、涙だけが止められなかった。
「上地さん、僕らも帰りましょう」
親太郎の言葉に反射的に首を振ってしまったのは、これ以上直樹から離れたくなかったからだ。
この場所には直樹との思い出が残っている。
直樹が生きていた証が、まだあちこちに沈んでいる。
せめてココで、直樹の残したものを懐かしんで彼を少しでも感じていたかった。
「なに我が侭言ってるんですか!上地さんだって身体の状態は良くないんですよ。
無理したらどうなるか、自分が一番分かっているでしょう?!」
「・・・もう、いい。もうどうなったっていい」
「上地さん!」
おぼろげに呟く雄輔に、親太郎は噛み付くような叱咤を向けた。
いつもおっとりとした親太郎からは考えられない、気迫の篭った眼差しだった。
「孝太郎さんは僕に、上地さんが帰りたくないなら好きにさせて良いって言いました。
無理に連れて帰って来ないで、上地さんのしたいようにさせてやれって。
でも僕はイヤです。絶対に連れて帰ります。一緒に帰って下さい、お願いします!」
瞳から、違う涙が零れる。
孝太郎は、医者の立場よりも友人としての気遣いを優先してくれた。
雄輔が望む事をまず大事にして我が侭も許してくれようとしていた。
そして親太郎は、もっと生きていてくれと懇願してくれる。
まだ一緒に居てくれと、精一杯の思いで訴えかけてくれる。
ごめん、ノク。オレはまだそっちに行けない・・・。
「分かった、帰ろう。でも、少し疲れたからゆっくり走って」
はいって、親太郎の顔に安堵の笑みが浮かぶ。
とてもたどたどしくて、でも沢山の思いのこもった笑顔だった。
これで良いんだよね、ノク。
オレ、間違ってないよね。
小さくだけど、雄輔も微笑んで親太郎を見てあげることが出来た。
続く。