昨年に引き続き、国土交通省淀川河川事務所上流域流域センター(伏見)にて開催された「淀川発見講座」に参加してきました。
今年は、京都市伏見区の会場で、講座終了昼食後の「淀川探訪」は、十石船にて伏見を巡ります。
淀川発見講座
淀川発見講座です。
講習会場。大阪会場より二回り位狭い様です。
淀川探訪~伏見宿を歩く~
何と無くお天気が悪いですが、出発します。
濠川(ほりかわ)沿いを歩きます。
右側から合流する川が宇治川派流。正面「角倉了以」記念碑が見えてきました。
「角倉了以翁水利紀功」碑。
紀功碑の横を抜け、高瀬川沿いを大手筋通りに抜けます。
合流点、十石船がすれ違い。
大手筋通りに出た所で正面に、高瀬川沿い「松本酒造酒蔵」が見えます。
信号も無く、結構通行量の多い大手筋を小走りで渡ります。最初冗談かと思いましたが、全員無事渡り切る事が出来ました。
大手筋通りを渡り、松本酒造酒蔵の板塀沿いを大手橋に向かいます。
大手橋のたもと「坂本龍馬避難の材木小屋跡」碑。
以上長く成りますが、副碑碑文本文を全文記します。
坂本龍馬、避難の材木小屋跡
慶応2(1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。
風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。
三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。
負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。
この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸南方にあったといわれています。
藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出し龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。
龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。
これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
慶応2(1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。
風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。
三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。
負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。
この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸南方にあったといわれています。
藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出し龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。
龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。
これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
以上長く成りますが、副碑碑文本文を全文記します。
京橋横から竹田街道に上がり、京橋の北詰、竹田街道沿い「伏見口の戦い激戦地跡」碑。
弁天橋のたもと、十石船乗船場に向かいます。
運営は、NPO法人などではなく株式会社「夢工房」で、伏見の酒蔵などの出資で運営されて居る様です。
伏見口の戦い激戦地跡
江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝船など、千数百隻にもおよび舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近です。
角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。
ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。
江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。
一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。
橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここに伏見御堂を宿陣として戦いました。
伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。
江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝船など、千数百隻にもおよび舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近です。
角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運で結ばれるとさらに発展しました。
ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を連ねていました。
江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。
一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。
橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここに伏見御堂を宿陣として戦いました。
伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。
江戸時代の伏見の様子を良く解説されていますので。こちらも副碑文を全文記します。
京都市が設置した、京橋の「高札」による解説。
竹田街道を東に折れた所、寺田屋です。
幕末動乱時の、刀傷、弾痕などが柱などに残って居ると言われますが、幕末当時の寺田屋の建物は鳥羽伏見の戦いで焼失して居り、現在の建物は明治に再建された建物であるとされます。
寺田屋庭、竜馬像前で、ガイド先生の解説を聞きます。
寺田屋を後に伏見酒蔵に向かいます。
「伏見夢百衆」、 「伏見夢工房」。
伏見酒蔵街です。
「月桂冠大倉記念館」。
十石船乗船場の手前、「東光山・辨財天長建寺」。
真言宗醍醐派のお寺で、辨財天を本尊とする珍しいお寺です。脇坂安治の下屋敷があった所で、脇坂は中務小輔という事で、“中務”は中国風には“中書”、京阪電鉄・中書島駅の謂れです。
淀川探訪~十石船~
私の席は、後方の「千姫」です。
寺田屋下の船着き場。
水深は、1m位だそうです。濠川とは琵琶湖疏水の一部分です。
京都外環状線高架下で十石船とすれ違います。
三栖閘門に入ります。
三栖閘門は、土木遺産として保存され現在は開く事は有りません。
三栖閘門乗船場で十石船は下船、三栖閘門資料館の見学をします。
三栖閘門の動くジオラマ。
パネル展示物。
閘門のゲート通路を淀川河川事務所上流域流域センターに戻ります。
講座に参加しますと、国交省・河川レンジャー養成講座受講資格が得られますが、東日本大震災などでの財政難も予想され、国の事業仕分けでいつ何時事業廃止されるとも限りませんので、今年は養成講座を受講する事にします。
受講する以上、河川レンジャーに選任されたいのですが結構難しそうです。
伏見港公園は、スポーツセンターなども備えた大きな公園です。