きょう9月13日は、『殉死』の日、乃木希典大将が亡くなった日です。
1912年〔大正元年〕9月13日 明治天皇の大葬の日に乃木希典が妻静子とともに殉死した日です。ご自宅のあったところに乃木大将をお祀りした乃木神社が建てられました。
1912年〔大正元年〕9月13日 明治天皇の大葬の日に乃木希典が妻静子とともに殉死した日です。ご自宅のあったところに乃木大将をお祀りした乃木神社が建てられました。
わたしが生まれ育った善通寺にも護国神社のとなりに乃木神社がありました。
乃木大将は善通寺に駐屯する第11師団の初代師団長として赴任された、善通寺とは縁の深いひとです。幼いころ乃木大将のお話を聴いた思い出があります。
そういえば、中学の同級生のなかに父親が乃木神社の神主をされている友人が居ました。
◆明治天皇が崩御されたのが、大正元年【1912年】7月30日のことです。
その日の夜 乃木大将は自分の家の門柱にかかげられた「乃木希典」の表札をはずしています。
この日から大葬の日までの一ヵ月半、自分の身は生き続けるが希典の表札だけは大正期には すでに存在しなかったのです。
彼が親類縁者に書いた遺書には 次のようなことが書かれています。
その内容は十条に分けられており、
・遺書の第一条には:
その内容は十条に分けられており、
・遺書の第一条には:
自分此度 御跡ヲ追ヒ奉リ
自殺候段 恐入候儀其罪ハ不軽存候
・・・自分は この度 天皇の御跡〔みあと〕を追いたてまつり 自殺し候〔そうろ〕う段〔だん〕、恐れ入り候儀〔ぎ〕
その罪は軽からず存じ候う。
その罪は軽からず存じ候う。
そして、自殺の理由については:
明治十年の役〔西南の役〕に 軍旗を失い その後死処を得たく心がけ候も その機を得ず。
皇恩の厚きに浴し、今日まで過分のご優遇をかうむり おひおひ老衰、もはやお役に立ち候ときも余日無く候 をりから、このたびの御大変、なんともおろれいり候次第。ここに覚悟相さだめ候こと候
彼が29歳、西南の役のとき軍旗を薩軍に奪われたことを責めています。
その西南の役から25年後の明治35年の秋、
明治天皇が陸軍秋季大演習のため、九州にくだられた時 西南の役の激戦地 田原坂〔たばるざか〕で創られた歌:
明治天皇が陸軍秋季大演習のため、九州にくだられた時 西南の役の激戦地 田原坂〔たばるざか〕で創られた歌:
もののふの攻め戦ひし田原坂
松も老い木になりにけるかな
天皇は「この歌を乃木にあたえよ」といわれたそうです。
明治天皇と乃木将軍のあいだの深い絆が感じられます。
明治天皇と乃木将軍のあいだの深い絆が感じられます。
◆乃木希典の辞世:
うつし世を神去りましし大君の
みあと慕ひてわれはゆくなり
◇妻静子の辞世:
いでまして帰ります日のなしと聞く
今日のみゆきに あふぞ悲しき
ちなみに、乃木の遺書には妻宛のものがありますので 彼女の死は突然に決まったもののようです。
私が生まれ育ったのは、乃木大将が明治31年の秋に師団長として赴任した第11師団のあった善通寺です。
近くには乃木神社や『乃木大将妻返しの松』のある金蔵寺があります。
近くには乃木神社や『乃木大将妻返しの松』のある金蔵寺があります。
司馬さんの『殉死』のなかでは「金倉寺」となっている寺で乃木将軍は この寺で単身赴任の生活をしていたそうです。
はじめて、司馬さんの小説『殉死』を読んだ時はショックでした。
何となく幼いときから「乃木将軍」「乃木将軍」と意味はわからないまま尊敬の念をもって親しんできたものですから。
何となく幼いときから「乃木将軍」「乃木将軍」と意味はわからないまま尊敬の念をもって親しんできたものですから。
小説『殉死』の前半の「要塞」を読みながら 現在の二世・三世・四世の政治屋の鈍遇さと乃木の軍人としての鈍さを較べてしまいます。政治屋だけでなく、こういう私もふくめて国民も劣化してきているのでしょう。そういう輩しか政治を志向しない社会自体も劣化しているのだと思います。
・・・参考文献 司馬遼太郎著『殉死』・・・