◆きょう9月10日は『去来忌』
芭蕉の弟子、蕉門十哲のひとりである向井去来の命日です。
芭蕉の弟子、蕉門十哲のひとりである向井去来の命日です。
宝永元年〔1704年〕に、54歳で亡くなったそうです。
去来といえば、京都の落柿舎〔らくししゃ〕を思い出します。
よく国語の教科書に載っていた、土壁に蓑〔みの〕と笠を懸けている光景の写真です。
よく国語の教科書に載っていた、土壁に蓑〔みの〕と笠を懸けている光景の写真です。
大学一年の五月の連休明けのある日、
落柿舎を訪れたことがあります、道標もなにもなくて、迷ったことがあります。
それほど当時は、閑散として侘しいところでした。
落柿舎を訪れたことがあります、道標もなにもなくて、迷ったことがあります。
それほど当時は、閑散として侘しいところでした。
すぐそばにある常寂光寺や祇王寺は人気があったのですが、 落柿舎は人気がないところでした。
『柿ぬしや梢はちかきあらし山 去来』
という句碑があり、その側らにモヤシのようなヒョロ長い感じの柿の木が寄り添うように植えられていました。
残念ながら、そこからは、嵐山の勇姿は見ることができませんでした。
去来は、慶安4年〔1651年〕長崎で 医者の家の次男として生まれ、
35才のときに嵯峨野に庵をかまえ、
38才の秋ぐらいから『落柿舎』と呼ぶようになったようです。
35才のときに嵯峨野に庵をかまえ、
38才の秋ぐらいから『落柿舎』と呼ぶようになったようです。
元禄4年〔1691年〕には、
芭蕉が落柿舎に滞在して 『嵯峨野日記』を書いたそうです。
そのころ、去来は凡兆とふたりで『猿蓑』の編集をしていました。
芭蕉が落柿舎に滞在して 『嵯峨野日記』を書いたそうです。
そのころ、去来は凡兆とふたりで『猿蓑』の編集をしていました。
◆きょうは、向井去来を偲んで、
去来が書き残した『去来抄』から、「句の色」について:
去来が書き残した『去来抄』から、「句の色」について:
「野明曰く、句のさびはいかなる物にや?去来曰く、さびが句の色也〔なり〕、閑寂なる句をいふにあらず、たとへば、老人の甲冑を帯し戦場に働き、錦繡〔きんしょう〕をかざり 御宴に侍りても老いの姿有るがごとし、 賑やかなる句にも静かなる句にも有るものなり。たとへば、『花守や 白きかしらを つきあはせ』先師曰く、さび色よくあらはれたり。」
『去来抄』は、Q&A、問答形式ですすめられています。
野明の「句のさびとは如何なる物ですか?」
という問いに対して、去来が答えています。
という問いに対して、去来が答えています。
そして先師・芭蕉は、
『花守や白きかしらをつきあはせ』という句が、さびの色をよく表わしている、と言っているのだそうです。
『花守や白きかしらをつきあはせ』という句が、さびの色をよく表わしている、と言っているのだそうです。
この句は、実は去来の句です。
花守とは、桜の花を管理する人・桜守りのこと。
花守とは、桜の花を管理する人・桜守りのこと。
当時の人びとには、謡曲の『嵐山』の
「これはこの嵐の山の花を守る、夫婦の者にて候ふなり」
の花守の老夫婦をイメージする言葉だそうです。
桜の花が爛漫として華やかであればあるほど、
白髪頭の人生の黄昏を向かえた「おきな」と「おうな」の花守の老夫婦の「さびしさ」がシミジミ感じられます。
白髪頭の人生の黄昏を向かえた「おきな」と「おうな」の花守の老夫婦の「さびしさ」がシミジミ感じられます。
また、花守というのは、江戸時代以前には、
和歌や連歌の世界ではタブー視されていた素材でした。
和歌や連歌のタブーを破るところも、蕉風の特色です。
和歌や連歌の世界ではタブー視されていた素材でした。
和歌や連歌のタブーを破るところも、蕉風の特色です。
小生も駄句を:
「空澄めどわが家の柿はまだ青し」
「青柿や子規の頭にいと似たり」
「重陽や苦極まりて吉となる」 青柿郎