◆今日は『迢空忌』
きょう9月3日は『迢空忌』、釈迢空こと折口信夫氏がなくなった日です。
きょう9月3日は『迢空忌』、釈迢空こと折口信夫氏がなくなった日です。
◇釈迢空〔シャク チョウクウ〕というのは詩歌の号で、名前は折口信夫といい、日本の民俗学者、国文学・国学の研究者です。
明治28年〔1887年〕2月11日、当時の大阪市西成郡木津村で生まれ
昭和28年〔1953年〕9月3日に東京で亡くなりました。
昭和28年〔1953年〕9月3日に東京で亡くなりました。
生家は医業と生薬業を兼ねていたが、彼は中学時代から文学雑誌に親しんだ。
明治43年 国学院大学国文科を卒業し 大阪府立今宮中学校の教員になった。
大正2年 『郷土研究』に投稿した「三郷巷談」が掲載され、これが縁となり柳田國男を知り、以後 柳田を師として民俗学の研究に力を注いだそうです。
◆つぎの『松風の歌』は歌詠みの釈迢空が昭和十九年に詠んだ歌です:
松風の歌 松風の丘にのぼれば松風ぞ さびしかりける――。松風の村よりよぎりて静かなる昼を 来にしか。日の光り 道に澄みつゝ白じろと 月夜の如し。鶏のねむれる土に、幾幹〔いくもと〕の松ぞ うつれる。土のうへに 鼻すりつけて大き犬 過ぎ行きし後〔のち〕やゝ遠くなりたる声にひと声を 鳴きあげにけり。松風は畷〔なはて〕を過ぎて、一人行く我を吹きつゝ 秋涼し――。灌溝〔うなて〕の水は、踏み越ゆる道に 溢れぬ。荒草の穂に出〔で〕し道に蝶一つ 叢〔くさむら〕 いでゝ高々と 空に入り行く。松風の丘にのぼれば松風ぞ 身に沁みにける――。松風の村を見おろしあゝたゞひとり いづこか 行かむ。
◆つぎは短歌です:
きさらぎの はつかの空の月ふかし。まだ生きて子はたたかふらむか生きて我 還らざらむと うたひつゝ兵を送りて家に入りたりくりやべの夜更け あかあか火をつけて鳥を煮 魚を焼き ひとり楽しき釈迢空
◆民俗学者としての折口信夫氏を偲んで
昭和3年『民俗芸術』に掲載された『ごろつきの話』を読んでみました。
これは日本社会学会で講演されたもので読みやすい文でした。
これは日本社会学会で講演されたもので読みやすい文でした。
◇彼は、『ごろつき』の意味について、このようにいっています:
雷がごろごろ鳴るようにして威嚇して歩くからだ、ともいうが、事実はそうでなく、石塊がごろごろしているような生活をしている者、という意味だと思う。
◇彼は また後世の『武士』の語源について;
「ぶし」の語源はこれらの野伏し〔のぶし〕・山伏し〔やまぶし〕にあるらしい。
・・・彼らは、まず、人里離れた山奥に根拠を据え、常には、海道〔かいどう〕を上り下りして、他の豪族たちの家々にとり入り、その臣下となり、土地を貰いなどしたのであったが、また中には、それらの豪族にとって替わったものなどもあった。
・・・
彼らは、行く先々で家々村々を祈って歩いた。彼らは、それでやすやすと糊口の道が得られたのであった。もし、それらの家々村々でよくしないと、彼らは祈りの代わりに呪いをかけた。山伏しが逆法螺〔さかぼら〕を吹くということは、後々までも恐ろしいことにされていた。
山伏しの悪行は近世ほどひどくなったのであったが、昔から、依頼と恐怖との二方面からみられていた。だから、彼らは易易〔やすやす〕と道中することができたのであった。
・・・彼らは、まず、人里離れた山奥に根拠を据え、常には、海道〔かいどう〕を上り下りして、他の豪族たちの家々にとり入り、その臣下となり、土地を貰いなどしたのであったが、また中には、それらの豪族にとって替わったものなどもあった。
・・・
彼らは、行く先々で家々村々を祈って歩いた。彼らは、それでやすやすと糊口の道が得られたのであった。もし、それらの家々村々でよくしないと、彼らは祈りの代わりに呪いをかけた。山伏しが逆法螺〔さかぼら〕を吹くということは、後々までも恐ろしいことにされていた。
山伏しの悪行は近世ほどひどくなったのであったが、昔から、依頼と恐怖との二方面からみられていた。だから、彼らは易易〔やすやす〕と道中することができたのであった。
◇彼は「かぶき」と「かぶき踊」についても書いています。
「かぶき」とは「かぶく」の名詞形で、「傾く」と書いて「かぶく」と読みます。
「かぶく」とは「異形の風体〔ふうてい〕をする」・「新奇なことをする」という意味です。
その「かぶき」に歌舞伎という字を当てた人は誰でしょう!?
歌・舞い・演技の技・・・芸能の本質をみごとに表わした言葉ですね。
「かぶく」とは「異形の風体〔ふうてい〕をする」・「新奇なことをする」という意味です。
その「かぶき」に歌舞伎という字を当てた人は誰でしょう!?
歌・舞い・演技の技・・・芸能の本質をみごとに表わした言葉ですね。
かぶきと言う語が、文献に現われたのは古いが、直接後世と関係したのが見えて来るのは、室町時代からだと思う。乱暴する、狼藉する意に用いられたのだが、古い用例らしい。この語が盛んに用いられた一つの中心は、桃山時代であった。当時は、事実この風が、盛んに行われもしたのであった。
阿国〔おくに・出雲の阿国のこと〕の念仏踊を、かぶきと言うようになったのは、彼女には、いろいろな演芸種目があって、その一つに「かぶき踊」と言うのがあったのだと思う。
当時の貴族たちは、なんでも、異なったものに目を止めた。阿国も、そうして認められた一人だったのだ。彼女が京に出て来て、五条の橋詰め・北野の東などに舞台を構えた時に、これらの大名たちは、すぐにそれに目を止めた。彼女が頭を擡〔もた〕げて来たのは、そうした擁護者を得ることができたからだったのである。彼らの芸を、なぜ かぶきと言うたかと言えば、彼らの持っていた演芸種目の中に「いざやかぶかん、いざやかぶかん」と言うて踊る踊があって、それから「いざやかぶかん」になるので、これをかぶき踊と言うたらしい。
・・・
かぶかんとは、「あばれよう」と言うことである。すなわち、舞いに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、これが六法〔ろっぽう〕となって残っている。なお、六法とは、前に言うた かぶき者の別名ともなり、その一分派には、丹前〔たんぜん〕などと言うものもできた。ともに、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練って歩いたのであった。「六法をむほう【=無法(笑)】とも読むべし」などと言うようになったのは、おそらく、彼らの、そうした行動から出たものであったろう。
阿国〔おくに・出雲の阿国のこと〕の念仏踊を、かぶきと言うようになったのは、彼女には、いろいろな演芸種目があって、その一つに「かぶき踊」と言うのがあったのだと思う。
当時の貴族たちは、なんでも、異なったものに目を止めた。阿国も、そうして認められた一人だったのだ。彼女が京に出て来て、五条の橋詰め・北野の東などに舞台を構えた時に、これらの大名たちは、すぐにそれに目を止めた。彼女が頭を擡〔もた〕げて来たのは、そうした擁護者を得ることができたからだったのである。彼らの芸を、なぜ かぶきと言うたかと言えば、彼らの持っていた演芸種目の中に「いざやかぶかん、いざやかぶかん」と言うて踊る踊があって、それから「いざやかぶかん」になるので、これをかぶき踊と言うたらしい。
・・・
かぶかんとは、「あばれよう」と言うことである。すなわち、舞いに狼藉振りを見せたものらしい。後の芝居では、これが六法〔ろっぽう〕となって残っている。なお、六法とは、前に言うた かぶき者の別名ともなり、その一分派には、丹前〔たんぜん〕などと言うものもできた。ともに、あばれ者であり、伊達な風をして、市中を練って歩いたのであった。「六法をむほう【=無法(笑)】とも読むべし」などと言うようになったのは、おそらく、彼らの、そうした行動から出たものであったろう。
× × ×
以上、2009年にUPしたブログです。