◆きょうは熊崎式姓名占の熊崎健翁氏の命日です
 大むかし野末陳平氏のベストセラーの姓名判断の本を読んだがキッカケで、姓名占いに一時ハマッたことがあります。
 そのとき熊崎式姓名判断を知り、熊崎先生の『姓名の神秘』や『ゝ神聖典』など本を読んだことがあります。

 いまではニュースで亡くなった人や事故にあった人の名前がわかったときに、名前の画数から三変筮で易占いをすることはありますが、熊崎式で占うことは全くありません。

 いま手許に熊崎先生の本『易占の神秘』と『周易正文』があります。とちらも、ほとんど加藤大岳先生が書かれた本です。
 なかでも『周易正文』は二冊もっています。どちらも帙入りで立派な本です。ヤフオクで500円と2150円【送料別】で落札したものです。
 この本を印刷したのは、加藤先生の古い友人で面白いイキサツがあるのですが、詳しいことはつぎの機会にお話いたします。

 なぜ二冊も購入したのか・・・その訳は「无咎=とがなし」は「旡咎」となっているからです。大岳先生の古い友だちは易を知らなかったので仕方ないことです。「无妄」が「旡妄」になっているのです><; おそらく大岳先生がそれに気付いたのは「无妄」の卦名で気付いたようです。・・・无妄のつぎの卦の大畜では「无尤」と正しく表記なされているのからです。
 ところが、易経は漢文ですから、レ点や一ニ三点、上中下点などが漢字の左側にあり、右側には送り仮名が「カタカナ」で書かれています。そんな関係で版を組みなおすことが大変なのでそのままにしたのではないか、と想像できます。 

 小生が最初に500円落札した无妄の卦までは、「无」は「旡」になっているのです。
 そんな関係で二冊目を購入したのですが、購入に当たって占いました。訂正されてない可能性はありますが、購入することは悪くないという判断で落札しました。
 二冊目もおなじ昭和八年二月二十一日印刷・昭和八年二月二十五日發行のものでした><;


◆大岳先生が熊崎健翁先生のもとで仕事をするようになったのは、健翁先生の奥さんと大岳先生が「いとこ」だったことによるようです。
 大岳先生は、幼いころ伯母の家で養育されたことがあり、影が形に添うような関係だった「いとこ」が熊崎健翁先生と結婚した関係からか、熊崎先生の許で仕事をするようになったそうです。・・・文学の道を志しておられた大岳先生は長男が生まれたの機会に易の道に進むようになったのだそうです。

 詳しくは、『易学研究』S36年10月号に掲載された『熊崎健翁先生を悼む』をお読みください:

  熊崎健翁先生を悼む

       加藤大岳

 熊崎健翁先生が、去る八月二十五日、熱海市天神山の別荘に於て長逝された。
 ・・・前略・・・
 私が先生を知るようになったのは先生の奥さんと私とが、いとことなっていたからであった。
 いとこと言っても、私は少年時代に伯母の家で養われ、二人は影の形に添うような親しい仲であったから否応なしに先生との間に機縁が生れたわけであるが、私が若し先生を知らなければ、今のように易になど携わる運命は生れて来なかっただろうと思う。
 貧窮を意に介せぬ無頼な生活をしていたとき、私に長男が生れ、子供が出来ては定収が無くては困ると思い、先生の許に職を奉じたのが、私を易に深入りさせる結果となったからである。
 先生の許に於ける私の仕事は、著述の手伝と、先生が雑誌などに発表される原稿の添削などが重な役割であった。

 先生の原稿を添削するのは、普通から見れば主客顛倒であるが、当時から既に不精の本性が顕著であった私は、原稿の下書きを書いて、それを先生に見て貰うなどという段取りでは、五枚ぐらいの短文でも、二日や三日ではとても仕上らない。それを五聖閣の環境が賑やか過ぎるからだという理由にして、自宅勤務ということにして貰ったりもしたが、自宅では仕事など、まるでやらないので、能率など、それであがるわけがないのである。
 そこへ行くと先生は、その頃小さな別荘のあった熱海に週末に出かけて月曜に戻ってくる其の間に、五十枚ぐらいの原稿を書いて来られるのであるから、勢い其れを私が添削清書するという仕組みにならざるを得ないのであった。
 そんな風にして出来上った原稿を先生は一度も読みなおされたことが無かった。これは大変な信頼の仕方である。私などには真似の出来ないことであった。
 また、五聖閣に講学局なるものが設けられ、運命諸方術の講義が始められると、その易学部の講師を私は担当した。数えてみれば私の二十四歳の時である。
 私はそんなに若いのに、その私から見れば、生徒はオヤジさんやオバさんが大半である。そこで、ヒゲでも生やしてみてはどうかと先生にすすめられ、その折に偽装のために蓄えた貧弱なヒゲが、今は半白となって其のまま私の鼻下にあるというのも、思えば妙な気持がする。
 先生の許では私などより後進である先生の甥に当る西尾友見君が、密葬の時に岐阜から出て来ていたが、年齢は私より上であったけれども、初め其の顔を見ても誰だか直ぐに思い出せないほどスッカリ老け込んでいたのに驚いたが、私とても同じように老いさらばえているのだろう。思えば、ずいぶん古い時代の話である。

  ×

 私は職員として先生の許に在りながら、姓名学の方は全く管掌外であった。
 その姓名学には門外不出の奥儀秘伝と称されるものがあるのだが、職員達は其のような制約に殆んど無関心で、しばしば其の禁制を犯すために、職員みんなに入門誓約書の提出を求められたことがあった。その誓約書には、奥儀秘伝は絶対に他に口外しないという誓いが立てられているわけである。
 それを出してしまった後になって これを憤慨したのは同僚の永杜鷹一君である。
 この永杜という人は、偏屈ではあるが気骨を重んじ、格式などをやかましく言う人で、われわれは熊崎氏に客員として迎えられては居るが、門下主などではない。入門誓約書を要求するなどとは言語同断である。その誓約書は盗み出して破棄しようではないかとみんなに提案した。

 然し、そんな書類のことなどに誰も拘泥していなかったし、また私はそういう不満があれば、誓約書を出す前に述べるべきではないかという意見であった。
 誰も合槌を打たないものだから永社君は其れを自分一人で決行すると言い、ついでに皆の分も盗み出して破いて置くということであった。
 そんなわけで入門書はどうなっているか知らないが、熊崎先生は私に取って、遠い姻戚であるというよりも、やはり尊い恩師である。
 先生の非凡な長所には、私などの【足従〔つ〕】いてゆけないものが多いが、先生を見習って自分を矯めようと努めたことも数え切れないほどである。

  ×

 私が先生の許を離れて独立したのは、先生が『ゝ心道』という宗教宗派を開かれたのを機会としてであった。
 そして私が発刊した月刊雑誌で、姓名学の批判などをやったりしたので、自分としてはそれらの批判論文は発表の前に先生にお目にかけ、それに対する反論をも併せ掲げることが出来るように、自分としては手を尽したつもりであるが、そのような反論を、先生は私自身が書くことを期待されていたりしたために行き違いが出来、しばらく疎遠を生じた時期などもあったが、先生と最も親しく談笑を交すことが出来たのは、戦後の数年間であった

 その頃は、古い連中はもう余り出入りしなくなっていたので、私がお邪魔にあがるのを非常に喜ばれた。
「加藤君は一升壜を提げて来ても、空壜だけ置いてゆくようなものだ」
と笑われたが、一緒に呑んでも、先生は二合くらいが丁度よいらしく、また切上げも椅麗で、夢ともなく現ともない陶酔境に入られるので、あとは奥さんを話相手にして夜の更けるまで呑み明かし、提げて行った一升がカラになって、新しい壜を空けて貰ったりするのだから、帰りは何時も十二時を過ぎ、私は足許も危ういほどに泥酔していた。
 傍で夢うつつの陶酔境に居られるように見えた先生は、然し其処で私が奥さんと話していた話など、ちゃんと覚えて居られ、私の方が驚くことなどもあった。

 昨年、熱海にお見舞いにあがったとき、この程度は差支えないのだと言われ、お酒を少し御馳走になったけれど、夢か現かの陶酔境などは、もう叶わぬ昔の悦びに過ぎなくなって居られるようであった。
 その時のお話では、この頃では筆を運ぶのが思うに委せず、三という字を書くのにも、一の棒がみな重ってしまうので、三寸ぐらいの場所が無いと一つの文字が書けないと嘆いて居られたが、頭脳は明哲で、而かも筆まめな先生が、運筆がままにならなくては、どんなにか、もどかしく思われることかと思い、いたわしくてならなかった。
  ・・・後略・・・
 ・・・『易学研究』S36.10月より・・・

    ×  ×  ×

 熊崎健翁先生のご冥福を祈ります(合掌)