◆きょう6月20日は近藤龍雄先生の命日です。
近藤先生は『焦氏易林』の和訓や『鹿卜亀卜』『太占人物考』などを書かれた大岳門の老師です。
近藤先生は『焦氏易林』の和訓や『鹿卜亀卜』『太占人物考』などを書かれた大岳門の老師です。
朝早くから『易学研究』と『実占研究』に投稿された近藤先生の記事を読んでいました。
6月10日の『時の記念日』にも加藤大岳先生や仁田丸久先生の易における時の見方や雑卦伝の『大畜ハ時ナリ』の解釈を読んでいるうちに「時」は過ぎ、ブログをUPする時を失してしましました。そのとき近藤先生が仁田先生に『大畜は時なり』を如何に解するかという質問や、それに対する仁田先生の答・・・それも『易学研究』のタテマエノ回答と『裏街道』か『うらおもて』か忘れましたがホンネの回答など読んでいるうちに時間が過ぎてしまいました。
6月10日の『時の記念日』にも加藤大岳先生や仁田丸久先生の易における時の見方や雑卦伝の『大畜ハ時ナリ』の解釈を読んでいるうちに「時」は過ぎ、ブログをUPする時を失してしましました。そのとき近藤先生が仁田先生に『大畜は時なり』を如何に解するかという質問や、それに対する仁田先生の答・・・それも『易学研究』のタテマエノ回答と『裏街道』か『うらおもて』か忘れましたがホンネの回答など読んでいるうちに時間が過ぎてしまいました。
きょうもそんな感じになりそうなのです、近藤先生の人物がわかりそうなインタビュー記事を掲載することに致しました。『易学研究』S30年〔1955年〕7月号に掲載された『近藤龍雄訪問記』という荒井省一朗氏のインタビュー記事です:
近藤龍雄訪問記
荒井省一朗
真性易人を求めて第一回第二回、共に新旧二名の人材を会員外にとらえた私の『訪問記』は、今回は眼を内に転じ協会の長老・近藤竜雄先生を山梨県小佐手村に訪ねんものと、青葉むせんばかりの中央線を勝沼駅にて下車したのが午前九時。駅頭先ず先生と一別以来の挨拶を交す。カーキ色のワイシャツ・ズボン、同色のハンチィング、ロイド眼鏡といった御軽装で、先生齢よりはグッと若い。元気横溢の態かまことに嬉しい。・・・ところで勝沼駅は山腹の駅である。一望、東南に展開する甲府盆地に臨んだが、この広大な景観を彩る緑色が悉く葡萄畑と聞いて驚いた。甲州街道の一宿・勝沼町が遠く緑色の間に屋根を見せている。さて先生の案内で、駅より道を西に取り山腹を降って葡萄畑と葡萄畑の間を縫う如く三十分、小佐手村の林照寺に到着した。浄土真宗、近藤家が代々住職を勤める寺である。周囲を葡萄に囲まれて、恰も葡萄寺の観がある。奥様並びに御養子夫妻の歓迎裡に客間に通され、四時間半の旅程を寛ぎながら、
真性易人を求めて第一回第二回、共に新旧二名の人材を会員外にとらえた私の『訪問記』は、今回は眼を内に転じ協会の長老・近藤竜雄先生を山梨県小佐手村に訪ねんものと、青葉むせんばかりの中央線を勝沼駅にて下車したのが午前九時。駅頭先ず先生と一別以来の挨拶を交す。カーキ色のワイシャツ・ズボン、同色のハンチィング、ロイド眼鏡といった御軽装で、先生齢よりはグッと若い。元気横溢の態かまことに嬉しい。・・・ところで勝沼駅は山腹の駅である。一望、東南に展開する甲府盆地に臨んだが、この広大な景観を彩る緑色が悉く葡萄畑と聞いて驚いた。甲州街道の一宿・勝沼町が遠く緑色の間に屋根を見せている。さて先生の案内で、駅より道を西に取り山腹を降って葡萄畑と葡萄畑の間を縫う如く三十分、小佐手村の林照寺に到着した。浄土真宗、近藤家が代々住職を勤める寺である。周囲を葡萄に囲まれて、恰も葡萄寺の観がある。奥様並びに御養子夫妻の歓迎裡に客間に通され、四時間半の旅程を寛ぎながら、
記者 いや、先生、先生が坊さんだったとは意外です。
近藤 ナニね、相続人の兄は医者になり、僕は他国に出ていたのですが、兄も死に母も死んでしまい、僕が寺を見ざるを得なくなったンだ。
夫人 戦争中、京都へ行って資格を取って来たンですの。
記者 私も先生はお百姓をしているだけだとばかり思っていました。
近藤 半僧半俗、まア生臭さだね しかしこれも母の遺言で、一つには親の菩提を弔い、二つには少しばかりの畠作りをすることです。晴耕雨読と云いたいところですが儒者の夢で、現実は晴耕雨眠になりますよ。
記者 伊豆山のお宅でお目にかかったのは最後が一昨年の秋でしたかねエ?
近藤 あア、あれから間もなくあの家を売ってね、こっちへ引ッ込んでしもうたです。
記者 伊豆山と較べたら寒いでしょう。
近藤 いや、故郷は寒くないですよ。
夫人 冬はそりゃァ厳しうござンす。
近藤 オラア 東京の方が寒いと思うな。たまに出かけて行くと本当に寒い。
夫人 東京は雷雨だそうですよ。今しがたラジオが云っておりました。
記者 そーですか。先日卦を取ったら今日は山水蒙の五爻でネ、雨は覚悟で来たンですが、この通り晴天です。東京辺の天気が卦に出たッてことになるのかナ?
近藤 それはいかんナ。山梨の天気を占ったら山梨の天気が的中出来なきゃいかん。
記者 そーですね。しかしこんな上天気に山水蒙を得ていたなンて、詰り不応卦とでも云うんでしょうかネ これは?
近藤 得卦の応不応を云う易者もあるがね、何日かも『易研』に書いたように、それを認めると再筮ということが起きて来て、「再三ハ瀆ル」という占筮の鉄則が崩れるよ。
記者 先生、私は必ずしも応不応ということと再筮ということとは連続した問題だと思いません。寧ろ、卦に応不応があることからこそ一筮鉄則の筮精神が必要なのだとは云えますまいか。
近藤 むずかしい問題だナ。
記者 いや、今日は議論に参ったのではありません。先生より色々お話を承って、それを雑誌に掲載するのが目的で。
そこへ御養子さんがキャメラを手に入って来られ、午後から雨にでもなると困るから今の中に撮りましょうと申される。記念撮影を済ませると、座敷には既に記者歓待の食卓が設けられ、奥様心尽しの御料理と先生手造りの葡萄酒が待っていた。遠慮なく頂戴しながらの、目的の筆録は左の通り。
◆経歴
記者 吉例によりまして、先ず先生の御経歴から伺わせて頂きます。
近藤 経歴を語るということになりますと、僕は父が語りたくなりますなア。父は近藤永真と申しました。その祖父が・・・詰り僕にとっては祖々父に当る人ですが、仏門にありながら長崎に蘭医を学んだ人だったので父も初めは医業を継ごうとしたと云いますが、明治となり世に漸く民権論の抬頭するに及んで父の関心は政治に動いた。今から七十年も前のことですが、山梨県最初の新聞『峡中新報』が左野広乃によって発刊されるに際し、父は彼より招聘されて これに参加した。また、後には独力で『山梨民報』を創刊しているのでして父は実に山梨新聞界の先覚者だったのでありますが、時には政治運動にも進出し、彼の犬養毅などと共に上野精養軒で政談演説をなしたこともあると聞きました。中央線の鉄道敷設に際しては、駒飼煉瓦会社を設立し実業に転身しましたが、一時隆盛であったにも拘らず僕が十歳の頃より左前となり始め、中学に通う頃には赤貧洗うが如き状態となりました。しかし、親は有り難いですねェ。その赤貧の中で僕は中学を卒業させて頂きました。十九歳の時で、恰も日露戦争直後の明治三十九年【1906年】です。それから僕は清国留学生の山梨県選派試験に及第して上海の東亜同文書院に入学することになりました。
記者 同文書院での専攻は?
近藤 商科です。僕に商科は不向きだったのですがね、何しろ貧乏には閉口していたので巨万の富を掴もうと夢想してのことなンですね。荒井さん、当時甲斐の山猿が支那に渡るなどということは破天荒のことでした。失意の父は驚喜しましたよ。子に夢を託したんですね。壮行の砌〔みぎ〕り送別の辞として下されたのはただ一言「他人の酒は気をつけて飲め」ということでした。
僕が父に示したのは、
僕が父に示したのは、
・・・これを見て父は眼に涙を浮べていましたが、今だに僕はその眼を思い浮かべます。落々雄心河漢衝
丈夫偏怕太平逢東方千里辞桑梓探玉崑崙第一峯
記者 同文書院は誰が設立したのですか。
近藤 根津一先生です。山梨県が生んだ支那問題の先覚者ですよ。先憂後楽の国士とでも申しましょうか。近衛篤麿の知遇を得た方で、時代を大観して時の両江総督を説得し許可を得て上海を去る約一里、草原の只中に建てられたのが東亜同文書院です。僕はその第六期生でありました。
記者 卒業後の動勢は?
近藤 最初、対支投資会社の東亜興業株式会社に入社した。後に一旦帰国して農商務省の嘱託となり貿易指導調査員をやりましたが、日独戦争に際し陸軍通訳となり再び渡支、講和後は青島守備軍の軍政部や民政部に奉職した。青島商品陳列館主事の時が思えば僕の活躍時代でありました。帰国後、一時郷里に在りましたが、父の友人だった根津嘉一郎の子分で「青バス」の社長堀内良平氏に懇望され、日本観光株式会社に入社し、その経営する所の熱海ホテル総務となりホテルの経営改善に当りました。二三年の予定で参ったのが思いがけなく二十四年の永きになってしもうたです。
◆漢学
記者 まだお訊きすれば色々お有りのことと存じますが、この辺で本題に入りまして、先生と漢学について少しお話を願います。
近藤 僕の漢学など仕様ない。まァ、強いて答えるならばですね、幼少の頃から父について書経を学び、漢詩の手解きを受けたということですよ。
記者 一寸お訊きしますが、昔の漢学者というのはどういうタイプだったンですかね?
近藤 まァ、今から見ればコチコチ屋の堅物でありましょう。父などもやはりそうで、論語を読むにしても「子曰ク」を「子ノタマワク」と敬読したものです。僕など父が留守だと「火の玉を食う火の玉を食う」と読んで祖母から叱られたことを覚えています。文の解釈だッてそうですよ。例えば陶淵明に『盛年重ねて来たらず』という詩がありますね。
人生は根帯無し
瓢たること陌上の塵の如し分散し風を逐うて転ず地に落ちて兄弟と為る何ぞ必ずしも骨肉の親ならん歓を得ては当に楽しみを作さん斗酒比鄰を聚む 盛年重ねて来らず一日再び晨たり難し時に及んで当に勉励すべし歳月人を待たず
・・・という詩ですが、父よりは厳格に説かれたものです。盛年は再び来ないから大いに勉強しろと云うンですなア。ところが、同文書院に森滄浪という先生が居ましてね、後に満鉄の調査部長になられた方ですが、その先生が「あれは若い時は二度とないから精出して大いに飲もうッてことだ」と教えてくれたので、漢詩の本当の意味がハッキリした次第です。例の詩経ネ、儒学の教典の一つですよ。孔子が古詩三千の中から三百を撰んで遺したと云われておりますが、実は大部分は各地の民謡です。それを儒者は教育として説くから無理ですなア。『鄭風』の中にこんなのがある。
野有蔓草 零露溥兮有美一人 清揚婉兮邂逅相遇 適我願兮野有蔓草 零露穣々有美一人 婉如清揚邂逅相遇 与子偕臧
・・・野辺で出遇った若い男女が共に楽しもうッていう歌です。「偕臧」は日本読みでは共に善みせんですからね。それが朱子にかかると「各其の願う所を得ん」ですよ。曰く「中冓の言はのぶべからず」なンですね。儒者は閨中のことに関しては威厳を保つため苦心しますよ。荒井さん、繋辞伝のあれだってね、
夫れ乾は其の静なるや専に、其の動くや直なり。是を以て大いに生ず。
夫れ坤は其の静なるやとじ、其の動くやひらく。是を以て広く生ず。
夫れ坤は其の静なるやとじ、其の動くやひらく。是を以て広く生ず。
・・・詰り男女性器に喩えて万物生々の理を説いたと解すれば判りやすいのに、朱子の注など見て御覧なさい。珍粉漢粉【チンプンカンプン】で廻りくどくッて判りやせんですよ。儒者としては止むを得ぬことかも知れませんが。そこへ行くと貝原益軒など破天荒です。『養生訓』を読んだことある?
記者 はア、ございます。ところで、問題の易ですが、やはり御尊父からお学びになったので?
近藤 父からではありません。尤も父の蔵書に通明の『周易講義』がありまして、少年の頃、見たことは見たのですがサッパリ判らぬ。
記者 では支那で習われたのですか?
近藤 いや、日本に戻って来てからです。支那では、聖賢の国に来たとばかり漢籍に親しみました。しかし、同文書院で支那通商史の講義をされた大村欣一先生より或る時、八卦の卦象卦意、並びに機構を説明されたことがありまして、思えばそれが僕の易に入ったそもそもの門となりました。
◆神秘
記者 易は帰国してからお学びになったと云いますがどなたにか師事されて?
近藤 独学です。師のない野育ちですよ 僕の易は、いや、荒井さん、ここらで僕の不思議な体験を語らせて下さいよ。
記者 不思議な体験と云いますと?
近藤 僕は根が仏門出のせいか、または、母に対して信仰の如き思慕を寄せていたせいか、世にも不思議な体験があるのです。その一つは、僕は上海時代に自殺を企てたことがありました。タ闇迫る黄浦江畔をさまよう時、天来の声とでも申しましょうか「待ちな待ちな」という母の声が耳許でした。ハッと我に返った・・・
きょうは茲まで。あすをお楽しみに^L^