神の意思の内にある人は神と神の意思であるものの他には決して望むことがない。


彼が病気であるならば、彼は健康であることを望まないであろう。


彼が神の意思の内にある限り、全ての苦しみは彼には一つの喜びであり、


全ての多様性は彼には一つの単純性であり、一つの一性である。


まことに、地獄の苦しみがそこにあろうとも、



それは彼にはひとつの喜びであり、ひとつの浄福であるだろう。


彼は自己自身に囚われることなく、自己自身を捨て去っている。


彼は受け取るべき全てに囚われなくあらねばならないのである。


私の目が色を見ようとするならば、目は全ての色に囚われずにいなければならない。



私が青とか白とかの色を見る場合、


色を見ているわたしの眼差しは、


つまり、そこで見ているものは、その際私の目によって見られているものと同じである。



私が神を見ている目は、

神が私を見ている、その同じ目である。



私の目と神の目、それは

ひとつの目であり、

ひとつの眼差しであり、

ひとつの認識であり、


そしてひとつの愛である。




マイスターエックハルトより




神の内に留まるということは、今まで分離してると思っていた神と完全に一致することであり、

奇跡講座が教えてくれるように、

分離したと思っていた自我は幻想であり、


神、イエス、神の子は一度も離れたことはないのであると

完全に思い出す事であると思う。


それを思い出すと、全ての概念、自己認識は捨て去られ、至福であり、純粋性の愛そのものしかない。

上も下も、右も左も、幸福や不幸も全く判断できず、


目に映る全てが完全にひとつなのだから。