本書は2012年に第1刷、今年5月に第2刷が発行された、頼山陽の詩集としては目下最新版となる本です。選者・訳注者の揖斐氏は、同じ5月に岩波新書から「頼山陽ー詩魂と史眼」という評伝を上梓しています。そのほか1月には草思社が「日本外史 徳川氏正紀」(訳・解説:木村岳雄)を単行本として発売、長らく書店で名を見ない状況が続いていた山陽に、再び脚光が当たり始めたことを大変嬉しく思っているところです(後の二冊は未読)。
戦前の日本で特別に礼賛された歴史人物、学者、文人は第二次大戦後に無条件に価値を否定された経緯があり、戦後生まれの一般人には勤王の志を抱く歴史家・頼山陽も、学問好きで働き者の二宮金次郎も必ずしも崇敬の対象ではなくなってしまった。そして文庫等で手軽に読める出版物が少ない状況が続くと、古い文人墨客はどうしても人気、認知度に影響が出る。しかし山陽は政治家ではなく、一漢詩人として捉えられるべき人物なのだから、時勢の如何によらず読み継がれる値打ちのある文人ではないかと私は思います。

他方一部には、純粋に漢詩そのものの分野で、山陽の数多の名詩を支那の古典詩に比して劣る、和臭がするなどと批判する向きがある。某学者は、山陽は日本語で言えることをわざわざ気取って漢文だけで表現している、植民地根性の現れだとまで言う。詩作品への好悪は各様にあるにしても、これらは全く言いがかりの域を出ない言辞だろう。日本には日本なりの漢文の受容と発展があってよい筈だし、音楽で言えば西洋クラシックから派生して黛敏郎や武満徹といった才人が出るようなものだ。彼らの斬新で前衛的な試みを前にして、本場のベートーヴェンならこんな語法、和音は使わない、和臭がするなどと言っては元も子もなくなる。
また歌人は和歌、俳人なら俳句、漢文を思考の土壌とした学者なら漢詩表現に執着するのは当然のこと。それに江戸期最大の漢詩人である山陽以上に優れた創作力、歴史に名をとどめるほどの才が、その口汚い批判者にあるのかどうか。


「頼山陽詩選」は訳文、注釈に加え適宜解説を付けた至れり尽くせりの本で、読んでいると、後代には残らなかった難解な熟語ばかりで構成された文をよく訳せるものだと驚嘆します。
雰囲気としては動的な印象の詩が多い。豊かな語彙を駆使しながら歴史の動乱を活写し、旅の心境を語り、時には生活の些細な愚痴を詩文にすることも。どんな題材でも格調高い文に写すことができそうな才人です。
移動の多い人生を送った山陽には、舟や宿が出てくる旅情を掻き立てる作品も目立ち、特に関西出身の私としては、よく知る土地の風物が所々で詠まれているのが嬉しいところです。

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我が家にある頼山陽の書と三男・頼三樹三郎の南画。⏬
(山陽の没後、三樹三郎は幕末のいわゆる「安政の大獄」で捕えられ、江戸で斬首されました。)