ハイフェッツのヴァイオリン演奏は十代の頃から聴いてきて、録音歴55年の芸風の変遷も自分なりに理解しているつもりですが、大巨匠も一個の人間だから、作家、作品との相性の良し悪しを感じることはあります。無論、技術的には不可能のないレベルの人だけに、目に見える傷があるとか無いとかという末梢的な話ではありません。

彼の演奏の一聴するとクールな音の内には、深い叙情と尋常でない音楽的熱情が潜んでいます。大家と言われる人でも軽佻な技巧家を本能的に嫌悪してしまう私が、ハイフェッツに対して特別な情を抱き続けているのは、技巧のメカニズムなどよりも遥かに強力な、類型のない歌心や正直な人間性の投影を音の底に感じるからだろうと思っています。音楽の論壇で彼の技巧面ばかりに注目が集まるのは、編曲時に余人が弾きにくい奏法や調性を意図して取り入れたりする当人の趣味にも責があるでしょうが、少し耳を澄まして聴けば、彼のヴァイオリン演奏の要諦が所謂スタンドプレイの部分だけにはないことに気づかれると思います。


おしなべてハイフェッツの真の名演奏はロマン派以後から20世紀の作品に集中していると言えるでしょう。殊にある程度まで奏者のロマンティシズムに依存して書かれた曲には出色のレコードが多い。前述のアクロンの小品のようなスラヴの情趣が濃い作品、技巧の精度が曲の生命を大きく左右するもの、ヴァイオリニストが自身の演奏用に書いた難曲においては、彼の華々しい芸当が作品の価値を最高潮にまで押し上げる。ヴュータン、ヴィエニアフスキ、チャイコフスキー、コヌス、コルンゴルトの各協奏曲の録音について、積極的に異を唱える音楽ファンは少ないと思われます。旋律や和音の妙を美点とする曲でのハイフェッツの音調は、実に人間のあらゆる感情的な乱れを鎮静させてしまうほどの霊気を宿しています。

ところが反対に、弾き手個人の感傷に彩られる余地がない様式的に完備されたモーツァルト、ベートーヴェンの作品では、ハイフェッツ生来のロマン色が解釈として余分な要素にも感じられてくる。そこでは音楽を自分の側に引き寄せるか、自分の全存在を帰依する対象として音楽を扱うかが大きな問題となるでしょうが、例えばティボーやメニューインの弾くモーツァルトの第4協奏曲は、ハイフェッツより自在なスタイルによっているにも関わらず、聴き手はモーツァルトの心をヴァイオリンで代弁してくれたように感じる。ハイフェッツはこの名品を複数回録音しているけれども、何か無用な力みや作為が目立ち、どう見ても前二者ほど曲の精神に恭順しているとは言いがたい。メニューインはハイフェッツの芸術全般を高く評価した上で、ことモーツァルトに対しては全く心を開けなかった人だと語っていますが、愛好家から見てもその評には深く同意できるものがあります。そしてベートーヴェンの協奏曲やソナタ、バッハの協奏曲では、集中力はあるが曲趣と無関係にリズムや旋律線を切磋琢磨しているところが多々見受けられます。


一人の人間が扱うレパートリーとして、ハイフェッツがレコード録音や実演で手掛けた作品数はかなり多い方だと言えます。しかし、他のヴァイオリニスト達の憧れの星である彼にしてからが、作品の解釈者、伝達者として必ずしも万能とはならないところに、古典音楽の具現の難しさがあると言えるでしょう。実際のところ私自身、そのモーツァルトの第4、5番の演奏に首をかしげつつ、自身編曲の「剣の舞」をいかにも得意気に弾き飛ばすのを聴いて、過去に何度ハイフェッツを嫌いになりかけたか分からない。そんな時、ふと同じ盤に収録されたメンデルスゾーンの「歌の翼に」、シューベルトの「アヴェ・マリア」の伸びやかで嫋々とした美音の高揚を聴くに及んで、いつしか猜疑の心は消え失せ、感涙にむせぶのを抑え切れなくなったものでした。上2絃だけで奏されるグルックの「メロディ」(DECCA録音)も、他勢を引き離す美しい演奏。それらには外に訴えるサーカス芸人的な野心はなく、音楽に奉仕する人間の、純粋で孤独な姿だけが後に残ります。