先般、著者と交遊の深かった同郷の方からこの御本をいただき、早速全編を拝読しました。表題作「焔」は某文学賞を受賞した力作で、16編の中では最もテーマが普遍的で感慨深い作品です。

特定の地名は出てこないが、越後の海沿いの町が舞台だと思われる。
雪深い山中の、ひどく朽果てた家屋に住まいながら田圃をやってきた老夫婦は、ようやく息子夫婦の住む街中の家に移ってきた。元いたところは倒壊必至の家屋が並ぶひなびた部落で、近年は山を下りる者が後を絶たない。五代も住み続けた彼らの家も、雪で隣家が押し潰されたりして予断を許さない状況にあった。
引っ越して数ヶ月が経った頃、老人はこの一冬だけは長年住み慣れた家に戻って暮らしたいと言い出し、それなら私もと言う奥さんと二人で再び山に籠る。
農作業を終えたある雪の晩、囲炉裏の前で晩酌を交わしていると、奥さんは俄然機嫌が良くなり、昔、紡績に出ていた頃に覚えた民謡を口ずさみ始める。

工場づとめは監獄づとめ
金の鎖がないばかり
かごの鳥より監獄よりも
寄宿住まいはなお辛い
工場は地獄で主任は鬼で
まわす運転火の車
年期証文一枚銭に
封じこまれてままならぬ
あわれなるかや蚕の虫は
糸にとられてまる裸

彼女の歌声を聴くのはまったく初めてのことだった。結核で死ぬことも多い紡績女工の歌だから明るい文句ではないが、彼女は手拍子を取りながら、それをとても楽しそうに唄った。
しかし寒気は次第に激しくなる。石油ストーブでは足りず、老人は薪をくべて奥さんと一つ床に入る。彼は寒さで時々眼を覚ます。何度めかの時、奥さんも眼を覚まし身を起こそうとするが、うめき声を上げて布団の上に崩れ折れた。奥さんは冷たくなって息絶えていた。
老人は4日間、奥さんを家に置いた。そして彼女の身体が自分から離れて行くのがやりきれず、誰にも知らせずに地面に穴を掘って遺体を埋めてしまう。後から親族や警察に話すと、勝手にそんな事をしたらあんたに殺人容疑がかかっても言い逃れできないぞとひどく叱られる。そんな理性的な考えが浮かばないほど、彼は長く苦楽を共にした者を喪った悲しみで頭が一杯になっていた。
一年後の雪の激しい晩、老人は古い家屋に火を放つ。屋外に出て腰を降ろす。一瞬のうちに家全体が焔となり、霙の降る夜空を赤く染めた。彼は、合掌しながらそれを静かに見つめ続けていた・・。

淡々とした文体による短編で、少しも饒舌な表現はありませんが、自分たちの歩んできた人生やその風景をいとおしむ老夫婦の姿が、後々まで強く印象に残りました。人間の生活は豪奢だったり質素で取るに足りないようだったり、傍目には異なる様相を呈しますが、皆それぞれに等しく重い内面を抱えて生きているものなのだという事を改めて教えられた思いです。

受賞作以外の15編も、読み手をおのずと人物の内面に引き込む力があって甲乙つけがたい内容です。中には単身赴任中の男の不倫、又は女性側のそれを扱った話もあって、そこは正直なところあまり興味が持てない。それよりも、人生におけるもっと根源的なもの、人間の生死を扱った幾つかの作品の方に私は惹かれます。
ベトナム戦争の戦死者の妻が遺体保存を望み、業者の手によって生きたような姿に再生するが、他所の夫婦を見ているうちにやがて自分のやっている事の間違いを悟る話。
国鉄の大量解雇にともない、反体制的な立場の男が辛い屈辱的な業務に従事することになり、最後は走行する列車に飛び込む話。等々。
しかし、題材を問わず、人の死や不幸せがいつも生と隣り合わせに扱われているのが大きな特徴で、この世の日常、幸福感がありふれたものでなく、尊い、夢一瞬のいとおしむべきものとして扱われている。生まれた時から平和が出来上がっていた私のような世代と違い、戦争の影を引き摺った戦後を生きた人の死生観が、登場人物達の心に重くのしかかっているという印象を受けました。
雪国の灰色がかった風景がまた、重々しいテーマの物語に似つかわしく、私から見ると一種幻想的な情趣を出しているように思われました。各編の話や人物は、何となく他と繋がってくるようでもあり、一冊をもって一つの作品とする意図が作者にあったのだと思われます。