音盤上でのヴァイオリニストとの出会いは、全く運命的な巡り合わせによるものと、それを端緒に自ら開拓した領域とがあります。人間の一生にとっては、前者がより重い意味を持ち続けるだろうと思いますが、どちらの面でも自分は良き縁に恵まれた方では無いだろうかと、近年あらためて感じるようになりました。


何十年と歴史的巨匠ばかりを聴き続けていると、自身の音楽的理想に浸っていられるのはよいのですが、半面、理想が高くなりすぎて、新しい演奏を聴いた時には予想を上回る非現実的な体験が出来なくなります。考えればそれは当然の事で、クライスラーやティボーを筆頭とする二十世紀のヴァイオリンの名手は、演奏という分野を作曲と並ぶ芸術表現にまで高めた人達です。およそ人間の創造力やテクニックで成しうる最高の仕事を、彼らのうちの何れかがすでに実現している。だから、特段これらを越える音盤は出なくても構わないし、はっきり言えば越えることなど無理です。

また現実問題として、往年のレコードに絞ってこれを自分の音楽にするだけでも結構な時間と体力を消費します。ヴァイオリンのほか、管弦楽、ピアノ、チェロを聴く時間も要る。生演奏は別として、音盤に限っては、もうこれ以上の新発見が無くても量的に不足は感じません。


先述のメニューインと、ティボー、エネスコ、クライスラーを知ったのは、多感だった二十歳前のこと。楽器そのものの魅力と偉大さを心の奥底に刻み込んでくれた云わば別格の奏者ですが、彼らがいなければ、おそらくヴァイオリンという楽器を特別には好きにならなかったでしょう。

物事は何でも「縁」より起こるので「縁起」という言葉があるのだ、と教えてくれた人がいる。音楽を聴き始めた当時、メニューインにしろエネスコにしろ時の人だったわけではない。もしも奇縁とか運に恵まれていなかったら、自分はヴァイオリンの真髄に触れない一生を送ったかも知れないのだと思うと、向こうからやって来たこの貴い巡り合わせに対し感謝の気持ちで一杯になります。


上記の人以外で現在音盤を所有している主な奏者は、ジンバリスト、シゲティ、ハイフェッツ、グリュミオー、エルマン、オイストラフ。

室内楽の分野でブッシュ、カペー。

後は尊敬していると云うと嘘になりますが、シェリング、コーガン、スターン、フランチェスカッティ、クーレンカンプが少々。

女流奏者は全般に線が細く、化粧気や自己主張(主観ではなく)が強いので、進んでは聴きません。ただ、辛うじて若い頃のボベスコとヌヴーにだけは男性ソリストに比肩し得る芯の強さと潔さを感じています。 


ところで、先般ブッシュ四重奏団を紹介する記事を書いた折、いただいたコメントへの返信で、音楽は堅苦しい哲学ではないが、耳や感覚のための快楽でもないという話になりました。続けて、

「音楽家の深い精神に触れて自己を磨き、生き方を悔い改めようという意思があるかないかで、音盤選びはおのずと変わって来ると思うのです。犬猫のように音楽に癒しを求めるとブッシュ四重奏団などは真っ先に外されるだろうし、何ゆえにあそこまで自分自身を追い詰めようとするのか、彼らの求道的心情の領域が理解できなくなると思います。」(一部訂正)

ブッシュ・カルテットに限ったことではなく、高い芸術表現には各々、容易に心に沁み通って来ないもの、常識的な美とは相容れない意固地な部分があります。この受容の苦しさこそは芸術鑑賞の醍醐味であり、聴くことの深い喜びに繋がるはずなのですが、ベートーヴェンやブラームスでさえ苦味や汗を蒸留したような演奏が流行るところを見ると、聴く側の大部分も安定性のある音楽表現を求めるようになって来たのでしょう。


さらに言うと、せっかく時間をかけて洗練された音楽を聴き、高尚な書物を読んでいても、実生活の方面で何の感化も受けていない人を、私は学生時代からよく見かける。なまじ芸術をかじった事でかえって傲慢不遜になる人物も多い。芸術家の提起する問題を、芸術上あるいは単に知性上の問題として消化しているとそういう事になる。あるいは逆に、文学も古典音楽も知らないまま仙人のように潔癖な倫理観を持った人にも時折出会う。そう考えると、ベートーヴェンの真髄に触れることは人間の成長、深化にとって何ら薬にならないように見えますが、それはおそらく彼の音楽を、感覚でなく精神的レベルで受け止めているかどうかの問題になると私は思います。

アドルフ・ヒトラーは大層芸術好きだったらしいですが、彼は一生かけてもベートーヴェンやワーグナーを、いや音楽全般を心底からは理解できない人間だったでしょう。劣等感に苛まれ、人類に対する倫理を著しく欠いたような男に、音楽の深いところから幽かに輝いてくる光が感じられるわけがない。

良い演奏は真面目で雑念のない心境で聴いてさえいれば、個人個人や社会を過った方向に導くものではない。殊に古典的な名演奏はすべて流行を超越した音楽であるだけに、日常的な心の垢を注ぎ落とし、人間本然の魂を呼び起こす大いなる力を持っています。