人の死、かりにも長く一国の要職にあった人の悲しい事件に際して、もう少し心静かにできないものかと苦々しく思いながら、葬儀に至るまでの数日間を過ごしていました。

故人に同情を寄せる人も嫌う人も、とにかく事実、想像を混ぜ合わせながら好き放題に喋る。匿名での投稿手段が幾らもある現代、ある種の人々にとってはもうそういう事が生活習慣の一部になっていて、確証のない推論や噂話が無自覚に発信されている状況です。この一件に限ったことではないですが、およそ喪に服する本然の態度から遠いと言わなくてはなりません。


一般の人々は警備、政治、救命救急のプロではない。又ジャーナリストでもないのだから、何を語る場合にも自分の方が物識りだという尊大な態度を取ってはいけない。それに、自身の名も明かさない投稿など本来は意見ではない。公共物への陰湿な落書きにひとしい。今から30年ほど前なら、社会にもの申すには勇気を持って新聞か雑誌へ投書するくらいしか手段が無かった。ツイッターやらブログやらもなく、個人の考えを他に知らしめるのが遥かに難しい状況にあったわけですが、私は今よりはすっきりとした健全な世の中だったと思います。

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おそらく安倍さんという人は、何処の誰とも知れない多数の相手から最も執拗に叩かれてきた政治家の一人であったでしょう。育ちの良さから来る品格があり、本来的には皆に好かれる柔らかな性格の持ち主だったにもかかわらず、護憲こそ平和への道だと信じる勢力からは終始手厳しい批判を受け続けました。もう坊主憎けりゃ袈裟までという勢いで、批判の矛先は氏の経済政策、外交政策全般、一挙一動にまで及びました。

恥ずかしながら私自身もかつては、戦争を憎む気持ちからではありますが、現憲法を守り抜くことが過去の惨禍を繰り返さない唯一の道だと、短絡に考えているところがありました。ブログにそんな趣旨の浮わついた理想論を書いた事もあります。しかし、戦争を憎んだり戦没者を悼む心を持つことは社会人として当たり前の事で、改憲を唱える人々はもう一歩進んで、その不幸を防ぐ為にこそ自分たちの手で法整備をしようと真剣に言っているわけです。

いくら自衛隊は違憲と声高に主張してみても、その人の平穏無事な生活は間接的には国防能力のある組織に守られている。これは事実です。国の安泰を期することは右翼的でも好戦的でもなく、何人にとっても真ん中の大切な道なのだと、自分に考えさせるきっかけを与えてくれた一人が安倍さんだったように思います。

あの日、葬列を見送ろうと沿道に寄り集まった多くの人々には少しの政治的打算もない。もちろん右翼でもない。その呼び声を聴きながら、本質的には皆から親しまれる国のトップにふさわしい器の人なのだとあらためて感じました。並の役者にはとても務まらない大役だったろうと思います。


つい最近の映像。
人の何十倍も濃い人生を送る中で、こういう何気ない時間は、本当に心休まるひとときであったでしょう。残念です。