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ワーグナーの楽劇『ラインの黄金』の聴きどころの一つ「ニーベルハイムへのヴォータンの降下」。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
録音:1967年(ドイツ・グラモフォン)『ラインの黄金』全曲盤より

これは黄金を作る小人たちが棲息する地底世界への場面転換の音楽で、聴いていると底知れない不気味な洞穴に身体が呑み込まれて行くような気分になります。毒気が非常に強いけれど無理のある曲調ではない。ワーグナーの紡ぎ出す弦の旋律と和声はあくまで美しく、古典音楽の正道を守ったものです。小林秀雄は、ワーグナーは悪い奴だが音楽で博打をやっているとは思わない、と言っていますが誠に本質を見据えた言葉だと思います。

音楽という時間芸術の世界にも短編作家と長編作家がいます。シューベルト、シューマン、ショパンは短い曲に向いている。ワーグナーはおそらく両方の能力を使い分けられる人でしょうが、先ずあの長い楽劇を抜きにしては彼の才能は語れない。また、語るからには楽劇の全曲をきちんと聴いた方がいい。音楽史上の革命児たるワーグナーの本当の偉大さに触れるには、オペラから編んだ管弦楽曲集だけでは不十分で、或る一つの音楽劇を、悠然とした時間の中に身を置いて気長に味わうという事が肝要になります。最初は多少の忍耐を要しますが、身体がその毒に中(あた)り出すと長大さがかえって有難いものになり、むしろもっと長くても構わないという気持ちになってきます。
ワーグナーのオペラ録音は、製作コストと需要の関係からか劇場公演のライヴ収録がほとんどです。録音会社としては確実にレコードの売上が見込めるアーティストでなければ、莫大な費用の掛かるスタジオ録音は任せられない。史上、『ラインの黄金』を含む『ニーベルングの指環』4部作をスタジオ収録した指揮者はショルティとカラヤンだけ。当カラヤン盤以後、半世紀を経た現在まで、再度スタジオ収録を行った録音会社はありません。

カラヤンの『指環』は、誰が言い出したのか発売当初から「室内楽的な透明さ」が魅力などと評されて来ました。これは甚だ誤解を招きやすい言葉で、合奏のレベルが群を抜いて精緻だという意味なら妥当と思いますが、カラヤンが曲に見出だしたものは、決して劇場的スケールの乏しい小気味良くまとまった音楽ではありません。当時のベルリン・フィルは音の容量が最高に豊かで、オペラが専門外とは言え祝祭用に編成されたバイロイトの楽団よりも当然合奏力は上です。録音スタジオで質量ともに最高の『指環』を製作するには正に理想的な団体であったでしょう。そして管弦楽の指揮に関しては、ウィーン・フィルを振ったショルティも棒さばきは巧みですが、性急にならずリズムに溜めと粘りを作りながら起伏を作ってゆくカラヤンの方が、断然ワーグナーに相応しい音楽づくりであろうと思います。