愛読する『百朝集』で初めて知った真言陀羅尼の呪文。

おんにこにこ はらたつまいぞや そはか

何やら意味深長な感じのする文句ですが、言葉の効力とか宗教的な意味を問うよりも先に、口ずさんでみて自ずと気持ちが和らぐような音調を持っているところが面白いですね。
人間、長く生きているうちには、心を鬼と化し義憤に燃えなくてはならない機会も出てきます。しかし、例えば部下を諭したり、世間相手に何か自説を唱えたりするにも、あまり言葉が直情的だと相手は素直に自省しない。それが反駁できない正論であっても大抵は怒られたという恨みを残します。呪文でも何でもよいから、怒りの感情を一度解きほぐし別の形のエネルギーに化して説得を試みるというのが、長い目で見れば建設的な方法でしょう。
怒りや悲嘆、後悔が動物を殺すほどの毒を生み出すものであるとは、普段我々はまったく意識していない。よく「歯に衣着せぬ」と言うか、毒舌家であることを誇りにしている人がいますが、彼は文字どおり周囲に毒気の強い物質を撒き散らして生きているわけです。絵の具と同じで、黒はたった一滴で他の明るい色を染めてしまう。口汚い人間が家に一人いるだけで晴れやかな家庭の空気は途端に淀み出し、どうかすると家族の健康や経済状態にまで累を及ぼします。
そしてエルマー・ゲイツ氏の毒素の話に従えば、怒りを発散する時はもちろん、歯軋りしながら怒りを堪えているのも同じく身体に悪影響があるという事になる。だから対人関係を考える前に、我々はまず自分の心と自分自身との折り合いを付けなくてはいけない。負の感情を統御し、極力早くそれらを心から洗い落としてしまうことが賢明でしょう。

自分ではどうにもこうにも抑え難いのが心の働きなのだ、悲嘆や後悔こそは幾多の芸術作品の創造の源となり、和歌とか絵画、音楽は何世紀にも渡って人の心に慰めを与えてきたのではないか、と思う人もいるでしょう。それは動かせない事実と思いますが、しかし当の芸術家だって怒りや悲しみという生の感情を直接カンバスにぶちまけているわけではない。そんな投げやりな調子の絵が人の心の奥深くに滲み入るはずはありません。数多溢れる感情の動きを素材としながら、むしろ強い意思で心を統御した成果だと見るほうが正しい。それは私の経験で言うなら、名演奏と言われる音楽のレコードを聴いた時に、ほぼ例外なく受ける印象でもあります。