私自身、意志や信念は決して固い方ではありませんが、やや変則的な難しい仕事を受けたり、これは量的に期限内にこなすのが無理かなと思った時には、故事にあるこういう言葉を思い出しながら精神を集中させるようにしています。
些事を忘れ、一心に何事かに打ち込む機会を与えてくれる職場という環境は、考えてみれば我々にとって大変神聖なありがたいものです。現代はあまりにも価値が多様で、不安を煽る情報と甘言的な誘惑が交錯し、心を一つ所に落ち着かせる事がむずかしくなっている。昔から情報の氾濫しない世の中など無かったでしょうが、インターネットとスマートフォンの普及によって、少なくとも目につく情報の量は圧倒的に増えた。20年前と比べてもその度合いは格段に強くなっているでしょう。

ところで、念力が岩を通すなどと言っても、人は緊張を強いられる特別な状況になければ四六時中炎々と心を熱くしていることはない。そういう信念らしきものの力が最大限に試されるのは、非常時を別にすればやはり職業的な場においてでしょう。私の知る自営業者は、大抵は職場、店舗と自宅を別にしている。店としての立地条件も関係しているのでしょうが、皆その方が改まった気持ちで仕事ができるのだと言います。
そして一個人が世間一般よりも深く精通できる事は何かと言えば、私は生業にしている仕事の分野以外にないと思っています。一年の大半を何に責任を負いながら生きているか、何をする事で食べさせてもらっているか。この自覚によって人間それぞれの立ち位置、存在価値はおのずと決まってくる。人は短い一生のうちに多方面でプロフェッショナルになるわけにはいかない。たとえば同じ分野に見える楽器修理と楽器製作だって、本人の自己評価は別として、残念ながらどちらも群を抜いて一流という人はいません。

趣味を沢山持つのはすばらしいことです。発想の幅や滋味深さを与えてくれる大切なものだと思いますが、しかしプライベートな領域でいくら無償の純粋な情熱を注いでみても、社会人としての確固たる立ち位置にはならない。だから仕事の方はほどほどにし、極力趣味の方面に精を出すというのは人間らしい真っ直ぐな生き方とは言えない。
業種職種が何であれ、就業時間は一日のうちで一番長く、貴いものです(拘束時間などという被害者的な言葉を誰が使い出したのだろう)。やはり責任のある仕事は生活の最上位に置いて、純粋な喜びと使命感を持ってこれをこなすのが本道だろうと思います。