〇仙台市ホームページより⬇️

「仙台藩の刑場は、先に仙台琵琶首(現在の花壇)にありましたが、周囲から嫌われ寛文6年(1666年)米ケ袋に移り、元禄3年(1690年)に、郊外の七北田へ移されました。以後178年間続き、約7,000人もの罪人が処刑されたと伝えられています。

土地ではお仕置場と呼ばれ、凡下・百姓・町人など一般庶民層や武士でも獄門になると凡下に格下げして処刑されました。刑罰は斬首・磔(はりつけ)・火焙(ひあぶり)・獄門(さらし首)などがあり、刑死者は葬儀も墓碑も立てることも許されませんでした。

延享3年(1746年)五代藩主伊達吉村公夫人の長松院が処刑された者を憐れんで、刑場の南側に河南堂、北側に河北堂を建てました。涅槃画像と観音像を本尊とし、常念物仏堂として処刑者をとむらいました。河南堂には「抜苦(ばっく)」、河北堂には「与楽(よらく)」の編額を掲げ、刑執行の都度洞雲寺より派遣された寺僧が読教供養したといわれています。」


七北田は市街地より気温が2度ほど低く、風が強い。夕暮れ時だったせいもあるでしょうが、こうした暗い史実を持つ場所というのは表面は今風に様変わりしていても、一帯にどこかうら寂しい陰のような空気が残ります。

178年間に7000人・・平均すると1年で約40人。現代の人権意識から言えば、仙台藩もかなりの恐怖政治を敷いていたわけですね。昔の事だから、おそらく無実の人や凶悪犯でない人も多数含まれていると思われます。人数ばかりでなく処刑の方法もテロ集団並みに残酷です。武家社会の倫理には人間として学ぶべき点は多々あるでしょうが、一般個人の権利や命の重さに関しては、間違いなく現代日本の国民の方が尊重されているという事を再認識しました。

供養塔と観音様の前で静かに手を合わせたあと、ほどなくして陽は沈み、脇の国道はさらに冷え込みが激しくなりました。