友人や知人と会うと、高確率で言われることが御座います。
私と居ると、時間がゆっくり流れる気がする、と。
私は見た目、決してふんわりおっとりではありません。
いえ、あまり客観的に自身を見ることが御座いませんので、これは恐らく、ですよ。
確かにねえ、そういうふんわりしたお衣装の撮影のときもありますが、役者のお仕事の時はバンドマンやらホストやら、どちらかと言うと機敏とまではいかぬまでも、しゃきしゃき動きそうなイメージの役が多いんです。
では何故私と居ると、ゆっくりした流れを感じるのだ、と疑問に思いまして。
ご存知の方はご存知の、私の早口言葉の下手さ加減。
滑舌の悪さ。
西の人間としては恥じ入る程、速く喋るのが苦手です。
これは慣れの問題もあるのでしょうね。
普段リアルで他人と喋ることが皆無。
唇や舌を使う機会が御座いません。
故に、偶にお会いして話すことになれば、必然的にスローペースです。
それでも噛みますから。
ゆったりとした会話と言えば聴こえは宜しい。
それが時間の印象に繋がるのでしょうか。
身熟なし。
立ち居振る舞いや所作ですね。
これは上記より更に自分では分かりません。
ゆっくりした動きなのでしょうか。
慌てたり急いだりしますと、間違いを犯したり失敗したり致します。
元々、全て把握する前に把握した気になってしまうADHD。
じっくりしても、矢張り失敗や間違いが多い私ですから、出来るだけゆっくりする癖がついているのかも知れません。
お客様がいらっしゃる時には、かなりの意識を以てお茶をゆっくり溢さずに淹れることや、それを運ぶことに重きを置いております。
しかしですよ。
身熟なしも会話のスピードも、具(つぶさ)には感じられないネット上でも、“ゆったりとした流れを感じる”ということを言われる方がいらっしゃいまして。
此方も実は頻繁に言われます。
謎ですよね。
相手に柔らかな時間だとか、休息できるような状況を差し上げられているならば、それは私にとってとても嬉しいことですし、それを求めて会いたいと言って頂けますのは大変光栄で、密かに誇りにも思うことです。
よく書かれているように、私達は時間の感覚が優れてはおりません。
これをここまでやった頃には五分経っているな、というような計算といいますか、予測が出来ません。
気付けば五時間という風に、あるがままを使い切ってしまいます。
そういう、時間がここまでだからこう区切ってここには終わろうといった、時間に合わせての行動をあまりしないが故の、その空気感が、もしかしたら他の方には“区切られていない時間”としての安寧だとか余裕だとかそういうものを感じさせているのかも知れません。
とすれば、現代の時計に追われた生活にお疲れの方は、きっと沢山いらっしゃるのだろうなあと考えました。