2025年10月13日
10日(金)石破首相は「戦後80年所感」(以下、「石破所感」とする。)を発表した。
彼としては、高市新総裁をはじめとする党内右派の抵抗のある中で、強い決意で「あえて踏み切った」と自画自賛し、世間からの高い評価を期待するものであったろう。
しかし、石破所感の内容は極めて中途半端で、インパクトのない、不十分なものであった。
首相の座を追われ、もはや党内右派に配慮する必要はなく、フリーハンドを得た立場からの「最後っ屁」なのだから、もっと強い刺激臭のある所感としてほしかった。
残念ながら、石破首相の限界を感じさせる、パワーのない所感であった。
石破所感は、対象とする戦争を1941年12月の真珠湾に始まる「太平洋戦争」に限定していると思われるところに根本的問題がある。(所感中では「先の大戦」という表現が一度あるのみで、その他の名称はまったく使われていない。少なくとも1931年の満州事変(柳条湖事件)に始まる日中戦争からを対象にしなければ、この戦争の本質に迫り得ないことは常識のはずである。)
このため石破所感は、敗戦必然の予測があったにもかかわらず、非合理的な、精神的・情緒的な体質を有する軍部が他組織・機関を圧倒し、独走したことをもっぱら問題とし、軍部の動きを阻止しえなかった諸々の原因を追求するという基調に貫かれている。(それだけではないという弁明のタネは所感の各所に仕込まれてはいるが、極めて不十分である。)
石破所感は、問題の一側面からのアプローチでしかなく、ほとんど「軍部単独責任論」ともいうべきものであり、軍部の侵略志向を生んだ背景となる、より根本的原因への追求をおろそかにする結果に陥っている。
石破所感で軍部を抑えるべき役割にあったとされる政府、議会、メディアは当時、世界を、時代をどのように捉えていたのか?その世界と時代において日本はどのような存在となることを目指すべきと考えていたのか?その目的を達成するための手段としての軍事力行使をどのように考えていたのか?
このように問いを設定すれば、彼らの間での意見のちがいは、短期的な状況の認識と、それに起因する軍事行動のタイミングについてのちがいでしかなかったということが見えてくる。やはり国全体が問題だったのであり、「軍部単独責任論」は成り立ちがたいということがわかってくる。
日本が西欧列強に伍して近代国家として国際社会で自立するためには、海外に領土を求め、権益を獲得・拡大していくという、帝国主義的、植民地主義的な発展を~第1次世界大戦後の世界が、極めて不十分ではあったものの、帝国主義戦争をやめ、諸民族の民族自決を推進するという方向への転換を図りつつあったことを看過し~目指していくほかなしという国家の大方針については、例外的一部少数の反戦勢力を除いて、我が国全体は官民あげてほぼ一致していた。
(所感で言及されている石橋湛山の「小日本主義」、あるいは幣原喜重郎の国際協調路線がここで括(くく)り得ない、真の平和主義と果して評価できるものかどうか、好機到来まで待つというにすぎない一種の「臥薪嘗胆論」なのではないか、議論のあるところであろう。)
所感は最も基本的なこの問題を見過ごして、軍部を適切に管理・規制できなかったということにだけ問題を矮小化してしまっているのである。
(このことは、欧米列強の帝国主義、植民地主義を批判する論拠を我が国が失うことにもつながっている。)
石破所感が、大日本帝国憲法に「文民統制」の思想がなかったことを指摘しているのは妥当、統帥権の独立により政府の一元性が確保されていなかったことを問題にするのも妥当、議会、政党が軍部をチェックする機能を果たしていなかったことを指摘するのも妥当、メディアが商業主義に走り、ナショナリズムの昂揚に乗ってしまったことを指摘するのも誠に妥当である。
しかし、国家の帝国主義的な大方針について我が国全体がほぼ一致していたということが戦争を引き起こした根本的背景であるという認識がなければ、「今日への教訓」が簡単にいえば「自衛隊を文民統制の観点で十分に管理しておけばいい」というだけの限定された部分的教訓に堕してしまうのである。
石破所感ではその「はじめに」において戦後70年談話(安倍談話)を次のように引用して、設問している。
「日本は「外交的、経済的行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節があります。‐‐‐国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。」
また、「はじめに」において、敗戦必然の予測に対して「なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。」とも設問している。
この設問からは、「外交的、経済的行き詰まり」とは何であり、いかなる原因で発生したのか、という問題意識が生じ、「軍部単独責任論」には帰しえぬ戦争原因論が導き出せたはずである。
「(できなかった)大きな路線の見直し」とは「植民地、既得権益の放棄」を事実上意味し、それを許さなかったのも決して軍部だけではなく、議会、政党、メディアをはじめとする広汎な世論の存在があったことが導き出されるはずである。
しかるに、所感は「戦後80年の節目に、国民のみなさまとともに考えてみたいと思います。」として、そこにそれ以上踏みこむことをしていないのである。
また、石破所感では「情報収集・分析の問題」という項目を設けて、「軍部単独責任論」を離れて、戦前のその不十分性を指摘しているが、例にあげられているのは1939年8月の独ソ不可侵条約の締結を予測できなかったことだけである。
本来ここで問題とすべきは、第1次世界大戦後のベルサイユ条約、そしてその後の海軍軍縮条約、また中国対応に関するワシントン条約等に流れる新しい世界情勢のベクトルについての無理解であり、中国、朝鮮等における反日、民族独立運動の根強さについての認識不足である。
国の帝国主義的な大方針があったがために、我が国全体がそれを無視、軽視してしまっていたことが指摘されるべきであった。
戦争総括が以上のようなものでしかない結果として、石破所感の結語にあたる「今日への教訓」では、軍部(実力組織)が独走するようなことがないようにする制度的な手当はなされた、その適正な運用を図ることが政府に要請される、政府は冷静で合理的な判断に心がけねばならない、議会、メディアがその政府をよくチェックしなければならない、というような中途半端な教訓が示されているにすぎない。
「無責任なポピュリズムに屈しない」「偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはならない」「暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できない」等の警句を発し、それらはそれぞれ重要で、意味があるが、その認識のための貴重な材料となる戦前・戦時における具体的な事件、事例への言及が、「暴力による政治の蹂躙の」の例を除けば、なされておらず、警句は強烈なインパクトを与えるものになっていない。
「無責任なポピュリズム」「偏狭なナショナリズム」「差別や排外主義」いずれも、それらを主張する人々にその自覚がないのが特徴であり、国際協調よりも自国利益を優先する「○○・ファースト」の動きとしてそれらが横行・加速する今日の事態のなかで、その誤りはもっと具体的に、厳しく非難・追及・弾劾されなければならなかったはずだ。
今日、露骨にその帝国主義的志向を表明する政治家は「ならず者」として忌避されるが、そこに至らずとも国益のために他国を犠牲にし、踏み台にすることをためらわないことが民主主義的決定の外観の下で国家意志として形成されることは現実に起こっているし、その拡大が懸念される状態にあり、それこそ今日の戦争を引き起こす原因となっている。
そのような戦争の原因となるような国家に我が国はならないというメッセージが石破所感に盛り込まれ、日本国民に、そして全世界に発信されればよかったのにと思う。