2025年10月26日

 

 朝日新聞俳壇、歌壇等からの印象句、印象歌の報告、第629回です。

 パレスティナ詠、ウクライナ詠、反トランプ詠、いずれもありませんでした。

 高市新政権批判が登場しています。

 

 

【俳句】

 

 

名月を・酒の肴に・酌み交はす (岡崎市 加藤幸男)(大串章選)

 

 

(こういう酒、ありそうで、ない。)

 

 

名月や・だんだん近く・なるやうな (高砂市 冨田卓)(小林貴子選)

 

 

(死期迫るの意味と読んでしまったが、違うようだ。)

 

 

遠足に・来たのと子らは・鹿に告げ (京田辺市 大島智雄)(小林貴子選)

 

 

(鹿の目に「何しに来たの?」と質問されたように思ったのだろう。)

 

 

括(くく)りても・縛りてもなほ・萩乱れ (姫路市 橋本正幸)(小林貴子選)

 

 

(乱れ咲きこそ萩の真髄。)

 

 

句にならぬ・秋の軍拡・総理かな (東大阪市 山田四郎)

 

 

(嫌な季節を迎えることになった。)

 

 

責任なき・積極財政・ちろろ泣く (さいたま市 篠田八寿子)

 

 

(「鳴く」を「泣く」としたのは意図的と見る。国債増発、円安、物価高が見通される。)

 

 

【短歌】

 

 

一家には・一台という・たこ焼き器・別れる妻の・荷造りのなか 

                   (大阪市 渡辺たかき)(川野里子選)

 

 

(ドラマあふれる。)

 

 

AIは・いずれ意識を・持つだろう・こともなげに言う・若き研究者 

                    (大阪市 清富佐子)(永田和宏選)

 

 

(定義もせずに語ることの不毛。)

 

 

投げ銭に・つい手を出した・馬の足・喝采浴びた・村祭かな

                    (吹田市 太田昭)(永田和宏選)

 

 

(落語的短歌。)

 

                     2025年10月22日

                        

 申し訳ありませんが、思い付きでしかありません。

 すでにしっかり勉強をした人にとっては、当り前すぎることかもしれませんし、バカげた妄想と笑われることかもしれません。

 自分用の備忘メモとして、またできれば読者諸兄姉の御意見御叱正をいただきたいと思い、書いてみました。

 

 「形而上」という言葉の「形」とは「モノ」「実体」のことであり、「実在」である。

 「モノ」「実体」は、人間の五感によって、直接あるいは間接(センサーによる感知、五感に適合する信号転換を経由)に、感知される。

 我々はこの「モノ」「実体」の世界の存在であり、我々自身が「モノ」「実体」である。

 この「モノ」「実体」の世界は、「下」とすることはないと思うが、「形而下(けいじげ)」と言われる。

 これに対し「形而上」とは、「形を超えたもの=目に見えない原理・理念・精神的なもの、「モノ」「実体」の背後にある原理」である。

 「形而上」の概念とは、「形而下」の世界を理解しやすくするために人間が創出した「補助線」のようなものである。

 「形而上」の概念は「モノ」「実体」ではなく、「実体なき観念」であり、「非在」である。

 例を挙げれば、「神」「絶対」「普遍」「永遠」「無」「空」「太極」がそれであり、「時間」「空間」「数字の0」もそれであり、実は「共産主義社会」もそれである。(後4者については意外に思われるかもしれない。)

 

 我々は言葉から成る世界に生きており、そこでは「形而下」の「モノ」「実体」を表わす言葉と「形而上」の「実体なき観念」を表わす言葉とが混在している。その結果我々は「モノ」「実体」と「実体なき観念」の区別がつかない状態におかれている。

 言葉とは概念であり、「モノ」「実体」も「実体なき観念」も、ともに言葉(概念)になっていて、言葉(概念)によって構成されている世界に生きる我々人間は、実体ある~すなわち「実在」たる~「形而下」と実体なき~すなわち「非在」たる~「形而上」の区別がつかなくなっている。

 「形而下」の世界を理解しやすくするための「補助線」でしかない「形而上」の概念を「実体」のごとく思い込んで、「形而下」の世界のなかで~宗教がその典型と思われるが~「形而上」の概念の「モノ」化、「実体」化をおこなっている。

 このため我々が生きている世界についての理解がかえって理解困難となり、その弊害がおびただしい。

 「形而上」の概念は「モノ」「実体」ではなく、それを言葉にして使っている人々によって内容が異なっているため、その性質、性格を究めようとすることは無意味であり、議論することはむしろ有害無益である。

 「補助線」がかえって「図形」の真の理解を妨げている。

 「補助線」は、「図形」の理解のために極めて有用であり、それをなくす必要はさらさらないが、それが「モノ」「実体」ではないことを認識して、本来の「補助線」の立場に戻さなければならない。その立場から「補助線」を純化しなければならない。

 

 

                      2025年10月20日

 

 本書の著者・森山徹氏がラジオ番組(10月8日(水)夜、NHK第1「プラッと」)で面白い対談をしていたので、それをきっかけに本書(PHPサイエンス・ワールド新書)を読んでみた。

 本書における「心」というものの定義は、我々が使っている「心」という言葉とはズレているので~本書では、要するに行動の制御・調整機能(特定の行動の滑らかな発現のための、余計な行動の抑制)を果たすのが「心」とされている。そんな機能は本能、刷り込み、条件反射を利用した訓練などでも獲得されるオートマティックなものだ~実験で析出されたものは「心」と言えるものではなかった。

 行動の制御・調整機能(本書でいう「心」)にとっての「未知の状況」において出現する「予想外の行動」~本書ではこの出現をもって「心」の存在が立証されたと強弁する~の探求は面白い取り組みであり、そのことによる成果それ自体の価値と関連科学への貢献があるとは評価できるが、そこに「心」を見出すのは行き過ぎだと言えよう。

 本研究の課題を「心はあるか」としてしまったことに、サイエンスの問題というよりは、言葉づかいの問題、出版社の良心の問題があったと思う。

 なお、本書に表わされた著者の熱意あふれる取り組み姿勢は、問題点が多いことによる反面教師的効果を含めて、科学をこころざす若い人たちを大いに刺激するだろうことは付言しておきたい。

 

 

                      2025年10月19日

 

 朝日新聞俳壇、歌壇等からの印象句、印象歌の報告、第628回です。

 パレスティナ詠、ウクライナ詠、反トランプ詠が2句5首ありました。後ろに掲げます。

 

 

【俳句】

 

 

胎(はら)の子に・心の宿る・良夜かな (日立市 川越文鳥)(長谷川櫂選)

 

 

(これは真実なのかもしれない。)

 

 

さはやかに・ふるさと納税・返礼なし (静岡市 宮崎泉)(長谷川櫂選)

 

 

(返礼ねらいのふるさと納税がふるさと納税のさわやかさを奪った。)

 

 

秋うらら・古墳のごとき・メロンパン 

          (北九州市 松本ゆきこ)(高山れおな選)(小林貴子選)

 

 

(メロンパンの魅力が増す。前方後円メロンパンもあっていい。)

 

 

木の上に・猿(ましら)見てをり・宮相撲 

              (長崎県波佐見町 川辺酸模)(高山れおな選)

 

 

(最近のニュースが異常なのであって、こちらが自然で本来的な人間と猿の関係。)

 

 

この度は・イメージ通り・松手入(ていれ) (茨木市 河本要)(小林貴子選)

 

 

(全体としての姿を整えるのはなかなかむずかしい。)

 

 

平和賞・強請(ねだ)るものかは・秋の風 (福岡県鞍手町 松野賢珠)(長谷川櫂選)

 

 

(反トランプ詠)

 

 

虐殺を・盾に虐殺・冷(すさ)まじき (久留米市 塚本恭子)(長谷川櫂選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

【短歌】

 

 

ロジハラを・してる上司に・ロジハラで・返し裁判・所となる職場

                    (東京都 富尾なつ)(佐佐木幸綱選)

 

 

(「ロジックハラスメント」、正論をかざして論理的に追いつめること、だそうだ。「ロジハラ」という言葉からして不快だ。)

 

 

注文も・支払いも皆・タブレット・立って見ている・ロボット型ヒト 

                   (岡崎市 近藤義孝)(佐佐木幸綱選)

 

 

(「ロボット型ヒト」で決まり!)

 

 

軽トラは・田舎のベンツ・農夫らは・野良着のままに・街へ繰り出す 

                   (安中市 岡本千恵子)(高野公彦選)

 

 

(都会が知らない新しい文化の息吹!)

 

 

ガザ報道・慣れてはならじ・今まさに・殺されている・昨日と別の子 

                   (札幌市 姉崎雅子)(永田和宏選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

空爆の・ガザで子供が・画面に叫ぶ・「私は景色・ではないわ」 

               (高松市 島田章平)(永田和宏選)(川野里子選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

不安ゆえ・人とのつながり・求めんと・キーウの路上で・花売る媼 

                    (石川県 瀧上裕幸)(川野里子選)

 

 

(ウクライナ詠)

 

 

ネタニヤフ・プーチン、トランプ・習近平・彼らの顔を・見ない日がほしい 

                    (前橋市 町田香)(高野公彦選)

 

 

(パレスティナ詠、ウクライナ詠、反トランプ詠)

 

 

トランプの・アメリカファースト・意訳なら・唯我独尊・我田引水 

                   (川崎市 杵渕有邦)(高野公彦選)

 

 

(反トランプ詠)

 

 

 

                        2025年10月18日

 

 「起きたことが信じたくないような、酷(ひど)い、理不尽な事件」について、それは犯人が異常な人間だったからである、異常な人間となるような異常な生まれ育ち方をしたからであるというような説明を、人は好み求める。犯人に責任能力を認められないがゆえに不起訴、あるいは無罪という扱いには反撥しつつも、である。

 このような傾向が生じる原因は、犯人の異常という説明にしておかないと、自分自身が、あるいは正常な存在だと信じている家族や友人が、同様の「起きたことが信じたくないような、酷(ひど)い、理不尽な事件」を引き起こす可能性を心配しなければならなくなるからである。

 犯人の異常という説明であれば、そのような異常な人間を排除すればいいという対応方針により心理的には一応の収まりがつくのに対し、通常の人間でも同様な事件を引き起こしかねないということになれば、対応のしようが見出しがたく、心理的不安定を免れがたいからである。

 

 敗北が必然・当然とされていた戦争の開始を、その結果が悲惨なものであり、巨大な損失の発生が予測できるにもかかわらず、日本が国家として判断したということも、日本人にとって「起きたことが信じたくないような、酷(ひど)い、理不尽な事件」と考えることができる。

 そのため、その発生原因には何らかの異常の存在が要請されることになる。

 それが「軍部単独責任論」「軍部単独悪者論」である。これによって、それ以上の原因追及はなされないこととなる。日本の国はトータルとしてはある種の免罪となる。(国民感情的にも天皇が免罪されたのもこの流れによる。「東京裁判史観」の一側面である。)そこで思考停止となる。(せいぜい、陸軍単独か陸軍海軍同罪かの軍部内の責任のなすり合いが残るだけである。)

 

 石破首相の戦後80年所感はそのような思考停止路線にあるものであった。

 (訴訟になるかもしれないと報道されているNHKの終戦記念日記念ドラマ「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦」も、ドラマ中に史実どおりではないという注釈を何度か加えて躊躇があったことを示してはいたが、最終的にはその安易な道を選択するものであった。)

 

 

                      2025年10月14日

 

 その後、石破首相の戦後80年所感は各所でいい評価を受けているようだ。

 「無責任なポピュリズム」「偏狭なナショナリズム」「差別や排外主義」を取り上げて、批判したことが、右寄りの高市新総裁の誕生、狂信集団でしかなかった参政党、日本保守党の市民権の獲得などの動きを懸念する向きから歓迎されたものと考えられる。

 筆者としても、取り上げ方が不十分であることが不満なのであって、今さら言うまでもなく、右寄り傾向の世間での広まり強まりについては石破首相と同様の懸念を持つ者である。

 しかし、そのことをもって石破所感の全体をよしとし、その不十分性を見逃すわけにはいかない。

 

 すなわち、前回、石破所感の基調を「軍部単独責任論」としたが、もっとわかりやすく「軍部単独悪者論」としてもよく、そこには軍部以外の一般人は善意に充ちた平和志向の人間であるという、人々を甘やかす、耳障りのいい、しかし誤った前提がある。

 前回に指摘したように、戦前においては、まちがいなく、議会、政党、メディアのみならず、世間一般に、我が国の帝国主義的、植民地主義的発展を歓迎し、良しとする風潮があり、それが軍部の動きを支えていたのである。

 そして、現在においても、簡単な工作によって、一般世論はその善意に充ちた平和志向を転換させて、好戦的、攻撃的になる危険性が大いにあり、絶えず自省していなければ戦前の轍を再び踏むことになる恐れがあるのである。

 自分たちが善意であり、平和志向であれば、そして悪者の登場を十分に警戒していれば、まちがった戦争に突入することはないという考えは、さまざまな秘密組織が暗躍し、秘密工作にたずさわっているこの世界の現実からして甘すぎる。

 反日的な事件を、残酷な事件も交えながら、いくつか仕組んでおけば、事件を起こした国、勢力を敵としてやっつけろと、世間というものは、たやすく好戦的、攻撃的になってしまうものである。

 秘密工作を仕事とし、これまでも経験を積み重ねてきた組織にとって、そんな工作は朝飯前のことである。

 

 だからこそ、特定の悪者を警戒・管理・規制しておけばそれでよしとするのではなく、自分たちがいつ戦争推進勢力の側につかされてしまうかわからないという自分自身への警戒を怠らないようにするとともに、出来事の表面だけを見た一時的熱狂によって戦争に突入するようなことがないように制度的歯止めをしっかり講じておく必要があるのである。

 石破所感はこの観点から考えた場合、やはり不十分であり、マイナスの効果をあたえかねないものである。

 

 

                      2025年10月13日

 

 10日(金)石破首相は「戦後80年所感」(以下、「石破所感」とする。)を発表した。

 彼としては、高市新総裁をはじめとする党内右派の抵抗のある中で、強い決意で「あえて踏み切った」と自画自賛し、世間からの高い評価を期待するものであったろう。

 しかし、石破所感の内容は極めて中途半端で、インパクトのない、不十分なものであった。

 首相の座を追われ、もはや党内右派に配慮する必要はなく、フリーハンドを得た立場からの「最後っ屁」なのだから、もっと強い刺激臭のある所感としてほしかった。

 残念ながら、石破首相の限界を感じさせる、パワーのない所感であった。

 

 石破所感は、対象とする戦争を1941年12月の真珠湾に始まる「太平洋戦争」に限定していると思われるところに根本的問題がある。(所感中では「先の大戦」という表現が一度あるのみで、その他の名称はまったく使われていない。少なくとも1931年の満州事変(柳条湖事件)に始まる日中戦争からを対象にしなければ、この戦争の本質に迫り得ないことは常識のはずである。)

 このため石破所感は、敗戦必然の予測があったにもかかわらず、非合理的な、精神的・情緒的な体質を有する軍部が他組織・機関を圧倒し、独走したことをもっぱら問題とし、軍部の動きを阻止しえなかった諸々の原因を追求するという基調に貫かれている。(それだけではないという弁明のタネは所感の各所に仕込まれてはいるが、極めて不十分である。)

 石破所感は、問題の一側面からのアプローチでしかなく、ほとんど「軍部単独責任論」ともいうべきものであり、軍部の侵略志向を生んだ背景となる、より根本的原因への追求をおろそかにする結果に陥っている。

 

 石破所感で軍部を抑えるべき役割にあったとされる政府、議会、メディアは当時、世界を、時代をどのように捉えていたのか?その世界と時代において日本はどのような存在となることを目指すべきと考えていたのか?その目的を達成するための手段としての軍事力行使をどのように考えていたのか?

 このように問いを設定すれば、彼らの間での意見のちがいは、短期的な状況の認識と、それに起因する軍事行動のタイミングについてのちがいでしかなかったということが見えてくる。やはり国全体が問題だったのであり、「軍部単独責任論」は成り立ちがたいということがわかってくる。

 日本が西欧列強に伍して近代国家として国際社会で自立するためには、海外に領土を求め、権益を獲得・拡大していくという、帝国主義的、植民地主義的な発展を~第1次世界大戦後の世界が、極めて不十分ではあったものの、帝国主義戦争をやめ、諸民族の民族自決を推進するという方向への転換を図りつつあったことを看過し~目指していくほかなしという国家の大方針については、例外的一部少数の反戦勢力を除いて、我が国全体は官民あげてほぼ一致していた。

(所感で言及されている石橋湛山の「小日本主義」、あるいは幣原喜重郎の国際協調路線がここで括(くく)り得ない、真の平和主義と果して評価できるものかどうか、好機到来まで待つというにすぎない一種の「臥薪嘗胆論」なのではないか、議論のあるところであろう。)

 所感は最も基本的なこの問題を見過ごして、軍部を適切に管理・規制できなかったということにだけ問題を矮小化してしまっているのである。

(このことは、欧米列強の帝国主義、植民地主義を批判する論拠を我が国が失うことにもつながっている。)

 

 石破所感が、大日本帝国憲法に「文民統制」の思想がなかったことを指摘しているのは妥当、統帥権の独立により政府の一元性が確保されていなかったことを問題にするのも妥当、議会、政党が軍部をチェックする機能を果たしていなかったことを指摘するのも妥当、メディアが商業主義に走り、ナショナリズムの昂揚に乗ってしまったことを指摘するのも誠に妥当である。

 しかし、国家の帝国主義的な大方針について我が国全体がほぼ一致していたということが戦争を引き起こした根本的背景であるという認識がなければ、「今日への教訓」が簡単にいえば「自衛隊を文民統制の観点で十分に管理しておけばいい」というだけの限定された部分的教訓に堕してしまうのである。

 

 石破所感ではその「はじめに」において戦後70年談話(安倍談話)を次のように引用して、設問している。

 「日本は「外交的、経済的行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節があります。‐‐‐国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。」

 また、「はじめに」において、敗戦必然の予測に対して「なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。」とも設問している。

 この設問からは、「外交的、経済的行き詰まり」とは何であり、いかなる原因で発生したのか、という問題意識が生じ、「軍部単独責任論」には帰しえぬ戦争原因論が導き出せたはずである。

 「(できなかった)大きな路線の見直し」とは「植民地、既得権益の放棄」を事実上意味し、それを許さなかったのも決して軍部だけではなく、議会、政党、メディアをはじめとする広汎な世論の存在があったことが導き出されるはずである。

 しかるに、所感は「戦後80年の節目に、国民のみなさまとともに考えてみたいと思います。」として、そこにそれ以上踏みこむことをしていないのである。

 

 また、石破所感では「情報収集・分析の問題」という項目を設けて、「軍部単独責任論」を離れて、戦前のその不十分性を指摘しているが、例にあげられているのは1939年8月の独ソ不可侵条約の締結を予測できなかったことだけである。

 本来ここで問題とすべきは、第1次世界大戦後のベルサイユ条約、そしてその後の海軍軍縮条約、また中国対応に関するワシントン条約等に流れる新しい世界情勢のベクトルについての無理解であり、中国、朝鮮等における反日、民族独立運動の根強さについての認識不足である。

 国の帝国主義的な大方針があったがために、我が国全体がそれを無視、軽視してしまっていたことが指摘されるべきであった。

 

 戦争総括が以上のようなものでしかない結果として、石破所感の結語にあたる「今日への教訓」では、軍部(実力組織)が独走するようなことがないようにする制度的な手当はなされた、その適正な運用を図ることが政府に要請される、政府は冷静で合理的な判断に心がけねばならない、議会、メディアがその政府をよくチェックしなければならない、というような中途半端な教訓が示されているにすぎない。

 「無責任なポピュリズムに屈しない」「偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはならない」「暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できない」等の警句を発し、それらはそれぞれ重要で、意味があるが、その認識のための貴重な材料となる戦前・戦時における具体的な事件、事例への言及が、「暴力による政治の蹂躙の」の例を除けば、なされておらず、警句は強烈なインパクトを与えるものになっていない。

 「無責任なポピュリズム」「偏狭なナショナリズム」「差別や排外主義」いずれも、それらを主張する人々にその自覚がないのが特徴であり、国際協調よりも自国利益を優先する「○○・ファースト」の動きとしてそれらが横行・加速する今日の事態のなかで、その誤りはもっと具体的に、厳しく非難・追及・弾劾されなければならなかったはずだ。

 

 今日、露骨にその帝国主義的志向を表明する政治家は「ならず者」として忌避されるが、そこに至らずとも国益のために他国を犠牲にし、踏み台にすることをためらわないことが民主主義的決定の外観の下で国家意志として形成されることは現実に起こっているし、その拡大が懸念される状態にあり、それこそ今日の戦争を引き起こす原因となっている。

 そのような戦争の原因となるような国家に我が国はならないというメッセージが石破所感に盛り込まれ、日本国民に、そして全世界に発信されればよかったのにと思う。

 

 

 

 

 

 

                        2025年10月12日

 

 朝日新聞俳壇、歌壇等からの印象句、印象歌の報告、第627回です。

 パレスティナ詠が2首ありました。後ろに掲げます。

 

 

【俳句】

 

 

賑やかで・やがて寂しき・虫の声 (筑紫野市 二宮正博)(大串章選)

 

 

(渥美清(俳号風天)に同様の名句があったはずだが、検索しても見つけられない。)

 

 

捨(すて)案山子・なぜか笑つて・ゐるやうな (松山市 正岡唯真)(高山れおな選)

 

 

(絶望、やけっぱちがなぜか頬を緩めることがある。)

 

 

【短歌】

 

 

みな母の・胎(はら)に養はれしかば・力士の腹に・小さき臍(へそ)あり 

                     (八尾市 水野一也)(高野公彦選)

 

 

(力士のへそを意識して見たことがなかったことに気づく。)

 

 

この夏も・生き延び得たり・冷房と・いう不自然の・力を借りて

                     (藤沢市 朝広彰夫)(高野公彦選)

 

 

(小生は、「この夏も・生き延び得たり・冷房と・いう不自然の・力拒否して」。)

 

 

診察を・まつ間の読書・すがすがし・二時間あまりも・没頭できて 

                    (盛岡市 山内仁子)(高野公彦選)

 

 

(皮肉半分。)

 

 

本国の・騒乱胸に・常どおり・留学生は・ゴミ出してゆく 

                     (高崎市 小島文)(永田和宏選)

 

 

(反外国人の風潮の強まりに対抗するため、暖かいまなざしの歌を期待しよう。)

 

 

ベンガル人の・若き夫婦は・夕道に・少なき言葉を・小さく交す 

                   (多摩市 豊間根則道)(永田和宏選)

 

 

(同上)

 

 

人の他は・おおかた裸足と・いう地球・ガザの子どもら・おおかた裸足 

      (大和郡山市 四方護)(高野公彦選)(永田和宏選)(川野里子選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

今在らば・やなせたかしは・描きにけん・ガザの空飛ぶ・アンパンマンを

                   (君津市 内川英夫)(高野公彦選)

 

 

(パレスティナ詠)

 

 

 

                         2025年10月11日

 

 公明党が自民党に三下り半を叩きつけた昨日の両党党首会談、もちろん斉藤代表の腹は事前に固まっていたはずだ。

 高市総裁はそれを読んだ上で会談に臨むべきだが、会談後の記者会見のやり取りで露呈しているその動揺からすると、そうではなかったようだ。

 

 「自身が総裁になったことで連立破棄を伝えられたと考えるか」という記者からの質問に対し、高市総裁は「『総裁が私でなかったら連立離脱はないのか』と聞いた。(公明側からは)『今回の選挙で誰が選ばれても同じだ。前執行部に対して何度も申し入れてきた課題が速やかに対応されていない』と言われた。」と答えている。(朝日新聞11日朝刊)

 

 問うまでもない高市総裁の問いであった。

 公明側の答えは「誰が選ばれても同じ」ではあったが、それは目の前にいる本人に対する紳士的配慮であり、あくまでも武士の情けとしての答であって、公明党の連立離脱は高市新総裁の政治体質に対する拒否感から発生していると考えるのが妥当であろう。

 斉藤代表の「首相指名で「高市早苗」と書くことはできない」との記者会見での発言において、斉藤代表が「高市早苗」と呼びつけにして快感を感じているらしいと思ったのは筆者だけではあるまい。

 今回の事態は高市早苗という個人的要素がきわめて大きいのだ。

 

 高市が会談で公明側にそのような質問を発し、そして、そのやりとりを記者会見で敢えて披露したのは、連立崩壊の責任は自分一人にはないという責任逃れの本能が働いたものとしか考えられない。

 「公明党が一方的」だとか「その場で総裁と幹事長で判断することはできない」とか、手続き的な話に矮小化して自己正当化を図るのも同根と考えられる。

 局面が事前に読めていないために自己保身に走り、大局的判断をする余裕を失うという、政治指導者としてあるまじき失態である。

 

 政局混乱は必至であり、経済、国民生活への悪影響は不可避ながら、我国政治がしかるべき軌道に乗るためのコストであるならば、これをあえて受容するという覚悟で事態を受けとめるべきであろう。

 

 

                      2025年10月7日

 

 坂口志文氏がノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 時あたかも高市新総裁選出、その首相就任を迎えんとするところであり、誠にいいタイミングでのノーベル賞受賞である。

 いいタイミングというのは、ノーベル賞受賞が高市新総裁選出・首相就任を祝うものという意味ではまったくない。

 

 すなわち、高市新総裁はその外交、防衛、外国人受入れ等の政策について対立的、排外的傾向が強く懸念されるのであり、自衛隊の敵基地攻撃能力の強化を推進するであろうし、集団的自衛権の行使を可能とする憲法9条改正に、同調する野党も巻き込んで、熱心に成果をあげようとするであろう。高市新総裁は、敵味方の認識が単純で、表面的合理性だけで敵に突進する免疫過剰反応的な政治家なのである。(トランプはそのような高市を大いに歓迎するであろう。)

 そのような「危ない」政治家の首相就任を迎えるこの時期に、免疫細胞の働きをコントロールする「制御性T細胞」の発見による坂口氏のノーベル賞受賞である。

 日本国民は、生理学・医学の世界からの類推により、外交・防衛等の観点においても免疫の適切なコントロールに留意しなければ、かえって我が身を害することがあるのだということを学ぶ必要があり、政治の世界での「制御性T細胞」が何処にありやという視点を確保するとともに、自らが「制御性T細胞」となる決意を固めて、高市新政権に臨まなければならない。

 坂口氏のノーベル賞受賞はノーベル平和賞にも通ずるとてもいい機会を日本国民に与えてくれた。