2025年11月26日

 

 報道によれば、小泉防衛相は、与那国島へのミサイル配備計画に対する「地域の緊張を故意に引き起こし、軍事的な対立を扇動している」との中国からの批判に対し、「他国を攻撃するものではない」と反論したとのことである。

 与那国島に配備されるミサイルは、飛来するミサイルあるいは航空機を迎撃する「03式中距離地対空誘導弾」と言われるもので、防御的性格の強いミサイルと考えられる。

 したがって、中国からの批判に対する小泉防衛相の反論は一応の反論として成立してはいる。

 しかし、批判が与那国島の「03式」のみでなく、我が国のミサイル配備計画全般を対象とするものとなった場合、「他国を攻撃するものではない」という反論は成り立たない。

 我が国はすでに令和4年12月改定の「国家安全保障戦略」(閣議決定)において「我が国から有効な反撃を相手に加える能力、すなわち反撃能力を保有する必要がある。」「(反撃能力とは)相手の領域において、我が国が有効な反撃を加えることを可能とする、スタンド・オフ防衛能力等を活用した自衛隊の能力をいう。」「こうした有効な反撃を加える能力を持つことにより、武力攻撃そのものを抑止する。」としている。

 すなわち、「反撃」あるいは「抑止」の目的での保有としてはいるものの、能力としては「他国を攻撃する」ことが可能な~すなわち「先制攻撃」の脅威を与える~ミサイル等の保有を我が国は決めているのである。

 小泉防衛相の対中反論は現時点での与那国島に限った、普遍性に欠ける、言わば矮小な反論でしかないのである。

 

 また、山崎和之国連大使は24日、中国がグテーレス国連事務総長に宛てたという高市答弁批判の書簡に反論して、同事務総長宛てに書簡を送付し、そこでは「日本の根本的な防衛政策は、中国側の主張とは異なり、完全に防衛志向の受動的な防衛戦略の姿勢である。また、日本は国連憲章に基づき認められた集団的自衛権を制限的に行使できる事態を国内法で規定している。中国側が引用した日本の高市早苗首相の発言もこの立場に基づいている。したがって、武力攻撃がなくても日本が自衛権を行使すると中国が主張するのは誤りである。」としている。

 ここでの「武力攻撃」は文脈的には「日本への武力攻撃」を意味するように思われるが、そうだとすれば「日本への武力攻撃」ではなく「他国への武力攻撃」があった場合を対象とする「存立危機事態」における「集団的自衛権の行使」を定めた「事態対処法」にこの書簡は反することになる。

 (それゆえ、意図的に書簡中の「武力攻撃」の対象をあいまいにしているのかもしれない。内閣法制局長官の迷(名)答弁として紹介した「実際に起こりうる事態というものを考えますと、存立危機事態に該当するのにかかわらず武力攻撃事態等に該当しないということはまずない」という考え方に基づいているのであれば、問題は解消することになるが、まさかこの書簡がそうであるはずはないであろう。)

 この書簡における「日本の根本的な防衛政策は、中国側の主張とは異なり、完全に防衛志向の受動的な防衛戦略の姿勢である。」との主張は、「存立危機事態」制度の厳密な制限的運用についての言及なくしては成立しないのであり、運用如何によってはその成立は危ういのである。その懸念を払拭する材料を書簡は何ら提供していないのである。(後注参照)

 

 もちろん、中国が世界秩序の再編を図らんとして軍事力を大幅に拡大するという覇権主義の道にあり、我が国を壊滅に至らしめるに足る十分な核・ミサイルを装備していることからすれば、我が国の防衛力の強化を批判する資格など中国にいささかも存するはずはない。

 しかしながら、小泉防衛相の対中反論も、山崎国連大使の対中反論も、わずかに時期をさかのぼって、反撃能力、敵基地攻撃能力を言い出す以前、新安保法制によって限定的ではあるものの集団的自衛権の行使を認める以前であるならば、完全なる専守防衛論として堂々と中国にぶつけられるものであったことを考えると、現在、我が国の平和主義の看板がいささか傷がつくに至っていることを残念に思わずにはいられないのである。

 我が国は果たしてこのようなリスクを冒すことによるメリットはあったのであろうか?むしろデメリットのほうが大きかったのではないだろうか?

 

(後注)

 「存立危機事態」とはいかなる事態をいうのか、「事態対処法」第2条第4号の抽象的な、したがって幅の広い運用がなされるおそれのある定義があるのみである。

 問題の答弁以後、高市首相は従来の政府の見解を維持していると言って問題の鎮静化を図ろうとしているが、従来の政府の見解とは「(存立危機事態の認定は)事態の個別具体的な状況に即して、政府が持ち得るすべての情報を総合して客観的かつ合理的に判断することとなる」というだけのものであり、「存立危機事態」の拡大的運用の懸念を払拭するものではまったくなく、かえって恣意的な判断が行われる懸念を強める印象のものである。