2025年8月15日

 

 終戦記念日ゆえ平和を求める報道が多数ある。

 誠に結構なことだが、その内容のほとんどすべてが戦争体験の継承の必要を説くものとなっている。

 それはそれで極めて大事なことだが、戦争の根本的原因を探求し、それを除去して平和を築こうという姿勢が欠如している。

 戦争体験の継承は大切な戦争抑止要素ではあるが、それで戦争が起らないようになると考えているとしたら、事実を無視した間違った考え方と断じざるを得ない。それは開戦時に形成されている全国民的な興奮によって一挙に吹き飛ばされてしまう、はかなき反戦心情と覚悟しておかなければならない。

 もし戦争体験の継承を説くことをもって終わりとしているならば、いかにも中途半端であり、平和の追求に本気ではないという印象が否めない。

 きつく言えば、戦争体験の継承を説くことをもって自分が平和主義者であり、善意ある者であることの表明をなしたとの自己満足に陥っているにすぎないのではないか、それによって本来追求すべき問題を追求することなく、お茶を濁しているのではないか、と感じられる。

 自分がイノセント(反戦)であれば、ギルティ(好戦)にはならないという甘い人間観(戦争体験の継承からこの甘い人間観への反省が生まれなければ、戦争体験の継承もことの半面しか語っていないことになる。)に立っているのではないか、と思われる。

 それは我が国全体に蔓延している悪しき思考停止ではないか、と思われる。

 筆者は悲観論者ではない。むしろ楽観論者である。その楽観論の実現のため、敢えて世間の傾向に苦言を呈する。