2025年6月28日
武田泰淳の短編「国防相夫人」には、その作品の一部をなすと考えられる次のような「後記」がある。
「後記。三島由紀夫の戯曲「わが友ヒットラー」(文学界12月号)を読んでいるうちに急にそのまねがしたくなり、またジャック・ドラリュ著、片山啓治訳の「ゲシュタポ・狂気の歴史」(サイマル出版会発行)からいい材料がもらえたので、大いそぎでこの短編を書くことにしました」
泰淳は三島の「わが友ヒットラー」のどこに何を刺激されて「国防相夫人」を書いたのだろうか?
この作品を収録している「武田泰淳全集第8巻」(筑摩書房)巻末の「解説」に文芸評論家森川達也は次のように書いている。
「氏(注:武田泰淳)のそういう〈「私」を最下層の地位におかねばならぬ〉という精神の姿勢は、この巻に収録されている他(注:「わが子キリスト」のほか)のどの作品においても、十分によく示されている。ことに‐‐‐「国防相夫人」‐‐‐はそうである。自分も最下層の地位におかれているいわば一人の庶民に過ぎぬ存在であることを徹底的に自覚している氏が、同じ庶民である〈人間〉に注いでいる愛情の切実さが、同時に〈人間〉存在そのものに対する鋭い批判となって、読者の胸にはねかえってくる。
そのうち「国防相夫人」は、作者自身も付記しているように、自決した三島由紀夫の戯曲「わが友ヒットラー」に直接触発されて〈急にそのまねがしたくなり〉〈大いそぎで書〉いたものである、という。いわば〈絶対者〉〈強者〉の立場に立って、終始作品を書きつづけてきた三島に対して、徹底的に〈有限者〉の自覚の上に立って自己の文学を書いてきた武田氏が、この戯曲を読んでどうしてもこれを書かざるを得なかった心情が、私には痛切に伝わってくる。氏の精神の緊張を示す佳編である、と言ってよいだろう。」
森川は、泰淳の〈有限者〉の自覚が三島の〈絶対者〉〈強者〉の立場に立って書かれた「わが友ヒットラー」によって刺激され、触発されて「国防相夫人」を生み出したと言っている。その心情が痛切に伝わってくると言っている。
泰淳が書かざるを得なかったのは、「それは違う、それは人間の姿ではない。」という三島への反発だというのであろうか?
「人間には三島が書いていない別の側面がある。それを提示せざるを得ない」という心情だったというのであろうか?
そもそも森川のいう「(三島の)〈絶対者〉〈強者〉の立場」、「(泰淳の)〈有限者〉の自覚」とはいったいどのようなものであろうか?
三島の「わが友ヒットラー」の主人公はもちろんヒットラーである。
泰淳の「国防相夫人」の主人公は、首相時代のヒットラーのもとで国防大臣であった、旧ドイツ帝国系(すなわち純粋のナチではない)軍人ブロンベルク将軍の年齢の離れた妻となった実在の下層階級出身の元娼婦エバ・グルン嬢であり、小説ではブロンベルク将軍をコントロール下に置くためにナチ側から送り込まれた女である。女にはその自覚があり、かついつでも送り込み側からの都合でこの世から消される立場であるとも認識している。(フロンベルク将軍はこの女との結婚を理由に国防相を罷免されるに至る。)
両者に一般的な意味での〈強者〉〈弱者〉、支配者と被支配者の違いがあることは言うまでもないことだが、もしそれだけのことであるならば、あまりにも当たり前の視点の違いがあるだけであり、三島の作品に刺激され、触発されて泰淳が執筆する、それをわざわざ作品中に書き加えるなどということが惹起するはずはないであろう。
人間が構築した世界像に登場する「絶対・普遍・永遠」「真善美」「ホンモノ」「究極的秩序」といったものが、実在とされたり、幻想にすぎないとされたりする。
(たぶんそれらは名称は違っても究極的には同じものであり、したがってここではそれを「絶対・普遍・永遠」としておこう。)
「絶対・普遍・永遠」に対して、有史以来、人々は様々な態度をとってきた。
その態度の違いによって人々を分類することができる。
A すでに社会にセットされている「絶対・普遍・永遠」を実在として、そのまま受容している人たち。
B 既存の「絶対・普遍・永遠」に疑問を持ち、真の「絶対・普遍・永遠」を求め続ける人たち。
C Bの人たちの中から生じる、他者が見出し得ない真の「絶対・普遍・永遠」を自分だけが見出し得たと確信するに至る例外的な少数の人たち。
D 既存の「絶対・普遍・永遠」をワケのわからない、ウサンクサイものと捉えつつ、それに支配され、服従を余儀なくされている人たち。
E 「絶対・普遍・永遠」などそもそも存在しない、幻想だと断ずるに至った人たち。
そして、多くの人々がこれらの分類のうちのあるものからあるものへと移動を絶えず繰り返している。
実際のヒットラーはAかDだったかもしれないが、小説上のヒットラーはBに設定されている。
三島はヒットラーにこう発言させている。「ウイーンの学生時代、おれは音楽劇を作曲しかけたこともあった。」「つくづく思えば、おれは芸術家になればよかったのだ。」「ともかく俺は、芸術家になればよかったのだ。あのワグナーのように‐‐‐」
そしてCのようにふるまうときを迎えて、そのようにふるまうべきだとそそのかされ、その虚偽を自覚するBの人、ヒットラーは苦悩するのだ。
独占財閥のクルップはこう発言する。「人間の感情を持っていることを、いくら総理大臣だって恥じるには及ばない。ただ、人間の感情の振幅を無限に拡大すれば、それは自然の感情になり、ついには摂理になる。これは歴史を見ても、ごくごくわずかな数の人間だけにできたことだ。」
「人間の歴史ではね。」がヒットラーの答えだ。
この答えはヒットラーが「人間の歴史」を超えた「絶対・普遍・永遠」を意識し、追求し続けている人間であることを示唆している。
Bの人であり、文学の場を活用しつつ「絶対・普遍・永遠」を追求しつづけた三島が、ヒットラーを「わが友」とする所以(ゆえん)はここにある。
(そして、その遺作「天人五衰」の終幕で、連作「豊饒の海」すべてを虚無に帰すごとくであった三島は、最後にはEに至ることになっていたのかもしれない。)
一方、元娼婦の、いつ暗殺されるともわからない日々を過ごしている国防相夫人はDの人である。
泰淳は、社会的には唾棄される存在であり、倫理道徳的には肯定的に受けとめられる可能性が限りなくゼロに近い彼女を、Bの人・ヒットラーに対抗させるかたちで取り上げないではいられなかった。
それは「絶対・普遍・永遠」への態度として、Dの人にも個、アイデンティティが認められ、泰淳にとってリッパな人間存在だと考えられるからだ。
彼女は政治的にでっち上げられた虚偽でしかない夫婦関係から愛さえ見出して、夫ブロンベルクに出自がばれた後でも次のように言うのだ。
「わたし、申しわけないと思っています。あなたが死ねとおっしゃれば、死にます。死ねなくたって行方不明になって、あなたにこれ以上ごめいわくをかけないことだってできます。ゲーリンクもヒムラーもハイドリヒもきらい。あんな連中は地獄におちて焼け死んじまえばいいのよ。わたしの好きなのは、あなただけ。でも、あなたがわたしを大きらいになって下さったって、かまいやしない。それでも、わたし、あなたを愛しているんだもの」
泰淳はそこに「人間」を、ヒットラーをはじめとする歴史の表舞台で活躍する選ばれた人間たちにいささかも劣らない「人間」を見出す。
そして、そのような存在がないがしろにされてしまうことを看過できず、そのアイデンティティの代弁者にならないではいられない。
三島の「わが友ヒットラー」は泰淳のこの問題意識を刺激するものであったのだ。
これが武田泰淳であるということは、泰淳が「〈有限者〉の自覚」、「最下層の地位におかれているいわば一人の庶民に過ぎぬ存在であることの徹底的な自覚」という言葉には到底収まりきれない人だということを示していると思える。
泰淳はEの人でありつつ、すべてのA~Eの人々に対して暖かいまなざしを投げかける、そういう人だったのではなかろうか。