2025年6月25日

 

 今後しばらくの間、中東のみならず世界全体で「力の論理」によって構築される秩序、すなわち力による支配と力なきがゆえの服従から成る秩序が優勢となるだろう。

 その直接のきっかけとなったのは、皮肉なことに、力なき弱者側のハマスによる無謀なイスラエル奇襲であった。

 それに乗じたネタニヤフ・イスラエル、さらにそれに乗じたトランプ・アメリカによって、表面的な説明のいかんにかかわらず、事実上なすすべもなくイランは敗北を喫した。

 イスラム教は、一方で厳格な戒律をその特徴としながら、一方では現実妥協的、物質主義的、現世的性格を持っている。そこから来る「聖」と「俗」との巧みな使い分けによって永い歴史を生き残ってきたのがイスラム教である。

 その伝統が今回も働いて、イスラエル、アメリカに対する妥協・屈従という判断をもたらせたのだ。

 国際法、国連憲章などいささかも問題にしない「力の論理」によって構築された世界秩序は、支配される側の怨恨を内部に抱えつつ、取り敢えず「平和」を導くであろう。

 これを受けて日本も、この理念なき秩序を受容して国の安寧を図るという日和見街道をたどっていくことになるだろう。

 これまで掲げてきた「法の支配」という原則に反することとなるが、「国益」を第一として、そのことは曖昧にごまかしていくことになるであろう(下注参照)。

(プーチンのウクライナ侵略を非難する論理も、中国の海洋進出を阻止する論理も、これまでとは別の論理を構築する必要に迫られるだろう。)

 以上のような世界情勢の進み行き、日本の国のあり方に対して、個人としてはどのような態度をとるべきか、それが問題となる。

 落日の帝国の王、無法者・トランプによって主導された世界秩序に乗っかって、そこから生じるおこぼれの「繁栄」をベンベンと享受しつづけることを潔しとしないならば、個人としてどのような選択がありうるだろうか?

 

 レベルを大きく異にするが、それまでの楽しみの享受を潔しとせず、その世界との絶縁を先日決断した。

 日本相撲協会の白鵬のイビリ出しへの個人としての対応である。

 いろいろな情報が飛び交っており、白鵬自身に問題がないわけではないが、事態の本質がイビリ出しであることは否定しがたい。

 それを引き起こしたのは八角理事長をはじめとする相撲協会の、仁義に欠け、礼に欠け、温情に欠けた、陰湿、無能、冷淡、狭量な体質である。

 この認識が生じた以上、もはや素朴に、天真爛漫に相撲の取組を楽しむことはできない。

 この認識を脇において相撲を楽しむことは潔いものではない。

 相撲と絶縁することにしたのである。皆勤賞だったテレビ実況中継ともおさらばである。

 

 相撲については所詮エンターテイメントの世界であり。それとトータルに絶縁したとしてもわずかな悲しみが生じるにすぎない。

 しかし、生存、生活の基礎中の基礎をなす世界秩序については、トータルに絶縁するわけにはいかない。

 多くを甘受せざるを得ず、絶縁するとしてもそれはほんの一部にとどめざるを得ない。

 ほんの一部とは言っても、意味ある絶縁でなければならない。

 いったいどのような選択をしたらいいのだろうか?

 世界秩序との付き合いがもはや長くはない、老い先短い者にとってもむずかしいのだから、付き合いが長くなる若い人々にとっては、わずかな一部にしろ絶縁は極めてむずかしい問題であろう。

 

(注)元駐米大使杉山晋輔氏は25日(水)朝日朝刊で次のように語っている。

 「 米軍による空爆を「国際法上合法だ」と言い切ることは難しいが、同時に核施設に限った攻撃を、「国際法違反だ」と断じることもできないと思う。法は金科玉条ではなく、「平和、安定、正義」を実現するための手法だと私は考えている。今回の攻撃は、国際秩序を保つための一定の貢献と捉えうる。」