2025年5月31日
「武田泰淳全集第3巻」(筑摩書房・昭和46年)の巻末「解説 武田泰淳小論」の最後の部分で文芸評論家松原新一が泰淳の次の文章を紹介している。
「死は平等です。平等であらねばなりません。どんなに壮烈にとげられた死も、どんなにみじめな衰弱死も。万人の前で叫んだあげくの死も、誰にも知られぬひっそりとした死も。自己主張の死も、沈黙の死も。死にもし価値があるなら、どんな死の重みも同じでなくてはなりません」(「三島由紀夫氏の死ののちに」)
そして松原はこれを次のように解説している。
「 弱者のままに死んでゆく人間がいる。醜いままに死んでいく人間がいる。殺戮の罪を犯して死んでゆく人間がいる。貧のままに死んでゆく人間がいる。淫女として死んでゆく人間がいる。しかし、そうしたネガティヴな意味しか帯びない生き死にをとげた人間にむかって、お前たちはニンゲンでないと審判してみたところで、死者はもはや生き直すことはできぬ。死者の列に入ることで、あらゆる人間の生の軌跡は、一つのどうしようもない必然として落着するはずではないか。「死は、平等です」とは、おそらくそういうことではないか。それが武田泰淳なりにつかみとった多元を多元のままに大肯定する普遍的な観念にほかならぬのではないか。そして、ここまでくれば、武田泰淳を指して、文学を媒介として証しされた稀有の宗教的実存、より正確には仏教的実存と呼んでも、おそらく大きな誤ちにはなるまい、と思うのである。」
武田泰淳はその作品を通じて、いろいろな人のいろいろな人間観を「それは違います。人間はそんな単純なものではありません。」と否定し、これでもかこれでもかと様々な人間を登場させる。「怪物」である。
小生は作品を読んでも読んでも、ただただ混沌の中に投げ入れられるばかりの感を与えられるほかはなかった。
松原新一氏の「解説」で、泰淳の究極のところはそこにあったのかと教えられた気がする。
「メメント・モリ(死を思え)」はここに帰着すべきという気がする。
(参考:青二才赤面録1341(武田泰淳「滅亡について」について)、同1344(武田泰淳の「その物」)、同1347(武田泰淳「審判」))