2025年5月20日

 

 一世風靡だった保守の論客西部邁先生が自殺して7年半が経過しました。

 西部先生は広く一般に受け容れられているヒューマニズムとデモクラシーをたいへん嫌っておられました、敵視されていました。

 浅学菲才の身をかえりみず、恥を覚悟で推測すれば、その理由は、おそらく次のようなものだったのではないかと思います。

 

 人類が直面している最も基本的な問題と西部先生が考えていたのは、近代において明らかになった「虚無」でした。

 「虚無」とは「普遍」「絶対」(一神教の立場からすれば「神」)の非存在、あるいは「普遍」「絶対」への志向の喪失と言い換えることができるでしょう。

 その結果は、人間存在の「無意味」「無価値」となります。

 西部先生はその「虚無」に抗(あらが)う立場をとりつつも、抗いがたいものと考えていました。

 そして、西部先生はこう言っています。「それがニヒリズムの到来をかろうじて防ぎうる唯一の場合と思われるのだが‐‐‐つまり、人間の精神は『虚無感』にとらえられるほかないという意味では弱いものだ、ということを会話や議論の当然の前提、さらには主要な素材にしてしまえば、ニヒリズムからの脱出口がみつかるかもしれないということである。」(「虚無の構造」(1999年、飛鳥新社)P33)

 先生は、客観的事態としての、逃れがたい「虚無」を会話や議論の対象とすることによって、「虚無感(ニヒリズム)」という主観的事態の回避、すなわち気分としての「虚無」の克服がありうる、「虚無」への対処はそれしかないと考えていたと思われるのです。(何という冷厳、冷徹な、そして悲観的、捨て鉢な考え方でしょう!)

 そして、保守の論客たる所以がここに現われてくるのですが、この「ニヒリズム」の回避のための先人たちの努力の積み重ねが「伝統」「慣習」として蓄積されているというのが先生の考えです。

 非力な個人では到底「虚無」に対処することなどできはしない、先人たちによって永く築かれてきた「伝統」「慣習」によってこそ「虚無」への対処は可能になると考えたのです。

 このことは決して「めでたし、めでたし」という決着ではありません。

 「虚無」を根底から吹き飛ばしてしまう解決ではないからです。

 否定しがたき「虚無」のもとで、せめて気分はニヒルにならずに生きていこうという対処方法にすぎないからです。

 このような対処しかないということは、人類にとって「悲劇」と言えるでしょう。

その「悲劇」を背負って人間は生きていかなければならない、というのが西部先生の覚悟だったと思われます。

(高杉晋作の「面白き・こともなき世を・面白く・住みなすものは・心なりけり」という捨て鉢、やけくその狂歌も思い起こされます。)

 

 こういった西部先生の悲劇的認識と覚悟からすると、ヒューマニズムとデモクラシーのお気軽な楽観は許しがたいものだったと思われます。

 ヒューマニズムとデモクラシーは、先生が蔑み、嫌う世人・大衆を肯定的前提とする考え方です。

 ヒューマニズムとデモクラシーは、世人・大衆についての問題意識を持たず、そのもとで明るい未来がやって来るという出で立ちで登場してきました。

 ヒューマニズムとデモクラシーが「虚無」を克服し、人類に「進歩」「自由」「繫栄」をもたらしてくれる。そういう安易な風潮が世に蔓延しました。

 西部先生がこの上なき貴重な人類の財産と考えていた「伝統」「慣習」は、ヒューマニズムとデモクラシーの前で無用の長物の状態に置かれてしまいました。

 客観的事実としての「虚無」は忘却され、その結果として「伝統」「慣習」は軽視、無視されることになったのでした。

 西部先生の深刻、重大な覚悟をないがしろにするものでした。

 

 しかし、ヒューマニズムとデモクラシーは西部先生が考えるほど果たしてそんなに立派なものでしょうか?

 「意味」「価値」を生み出すほどの「構え」をもった思想と言えるものでしょうか?

ヒューマニズムとデモクラシーの提唱者たちの間にそのような振る舞いが存在するのは否定しがたいところではあります。

 しかし、歴史的経緯からすれば、ヒューマニズムとデモクラシーは、世の中をやっていくには他にいい知恵はないという「妥協の産物」であり、暫定的な「合意」「約束」「契約」に過ぎないと考えられます。

 「普遍」「絶対」を志向するようなものなどとは到底言いがたいものです。

 取り敢えずこの方法で社会を運営していくことが最も適当であろうという身過ぎ世過ぎの方法、手段でしかないと考えることができます。

 そう考えれば、ヒューマニズムとデモクラシーは、西部先生の「虚無」という認識とは次元を異にするものであり、それと対立するものではないということになるのではないでしょうか。

 大それたねらいを持った思想ではないのではないでしょうか。

 西部先生は、「伝統」「慣習」を愛するその保守の立場から、あるいはヒューマニズムとデモクラシーの単純な楽観的人間観に対する反発から、敵視する相手を過大評価してしまったのではないでしょうか。

 対立するものではそもそもないのですから、ヒューマニズムとデモクラシーのサイドとしても、西部先生の過大評価を多としつつ、「虚無」への対応をはじめとする様々な知恵を「伝統」「慣習」から謙虚に学べばいいということになりそうです。

(現実に「保守」勢力から提示される「伝統」「慣習」は恣意的なもので、西部先生が批判する現代の思潮と変わるところのない安易、軽薄なものばかりだという問題があります。「伝統」「慣習」の中から引っ張り出してきたらいいのは一体何なのでしょうか?)