2025年4月4日
最近はほとんど発生していないように思える事件として男女の「心中」がある。
そもそも「男女の」という形容が必要となるというのはおかしいのであって、本来「心中」は相思相愛の男女によるものでしかなかったはずである。
その「心中」がいつのまにか複数自殺という意味に転じてしまい、「親子心中」「無理心中」などと使われるようになり、現実に発生する事件はこちらの非本来的「心中」のほうになってしまった。
こういう現象を「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」‐‐‐とは言わないか。
ところで、相思相愛の男女がいっしょに自殺するのを「心中」というのも、実は本来的意味が転じて使われるようになったのである。
「心中」のもとの意味はまた別にあったのである。
すなわち、「心中」とはそもそも「真心(まごころ)」という意味であって、そこから「真心のあるところを示す、証する」あるいは「その証拠、約束、証文」という意味になったのである。そういう意味で「心中立て」という表現もあった。
そして江戸時代、浄瑠璃の世界で男女の自殺にこの言葉があてられたことによって、「流行語大賞」的にこの言葉の使われ方が定着して今日に至ったのである。
そもそもの「心中」とは英語で言えば「sincerity」である。
近松門左衛門の「心中天網島」の英訳題名は「The Love Suicide at Amijima」だが、「Suicide」などという即物的な表現ではなく、「The Proof of Sincerity at Amijima」とするという手もあるのではなかろうか。
なお、「心中」の最も非本来的な使い方として、トランプの関税政策を「無理心中的軽率経済政策」と呼ぶことが出来るのではなかろうか。