2025年3月27日
一昨日(3月25日)、東京地裁は文科省からの請求に基づき統一教会に対する解散命令を発した。
3年前の安倍元首相暗殺以来、統一教会による被害の情報が大きく報道されるようになって、国民一般の統一教会に対する加罰感情は高まっており、この度の解散命令は当然のこととおおむね受け止められている模様である。解散命令に対する各政党そろっての肯定的反応がそのことの如実の反映であろう。
しかしながら、統一教会側は直ちに特別抗告しており、最終的な司法の判断は見通しがたいが、仮に今回の解散命令が確定し、宗教法人の解散命令についての前例となるとすると、我が国の宗教制度に大きな禍根を残すものであり、解散命令は妥当ではないと筆者は考えている。
筆者は統一教会の存在に対して、その成立の経緯からしても強い嫌悪を感じる者である。しかし、その嫌悪があるからといって、統一教会が厳しく処断されることを単純に良しとはしない。宗教法人に対する解散命令の発動は信教の自由に反するものであり、できるだけ抑制的であるべきと考えるからである。
東京地裁解散命令決定において統一教会に解散命令を発する理由とされているのは、①被害規模(被害者数、金額)が膨大であること、②被害の態様が深刻であること(被害者の生活破綻等)、③その後の被害防止措置が不十分なことと整理される。もう1つの理由として、被害を発生させた献金等の勧誘の仕方(脅迫的強圧的マインドコントロール)が上げられているのかどうかは、筆者が接した報道の限りでは明確ではない。
さて、3つないし4つの解散命令の理由によって統一教会と適法に存続している他の宗教法人を区別することができるだろうか?
他の宗教法人においても、多くのものが布教活動、信者拡大活動を行っており、また信者からの資金提供をその運営の基礎に置いている。
そのような宗教法人において、信者とは信じている状態でいるかぎりにおいては被害者ではないが、信仰を棄てたとたんに「自分はだまされていた」「マインドコントロールを受けていた」と被害者に転ずる存在である。被害はもっぱら信者の主観にゆだねられており、信者はそういう意味での被害者予備群である。
適法存続宗教法人、しかも有名大宗教であればあるだけ、膨大な規模の被害を発生させる潜在的可能性を有していることになる。
そして、生活が左右されるレベルで宗教に入れあげている信者もまた多数存在しており、適法存続宗教法人はそのような信者を抱えている。
適法存続宗教法人がそのような信者の生活を心配して、献金をやめてくれ、寄進をやめてくれと要請したなどとは聞いたことがないし、またあり得ないことのように思われる。
すなわち、この度の東京地裁解散命令決定の理由は、信仰を棄てる信者を一定規模で発生させ被害者意識を醸成すれば、多くの宗教法人に解散命令を発することを可能とする、極めて危険な内容なのである。
権力にとっては、信仰を棄てる信者を一定規模で発生させることなどはさして困難な作業ではなく(その際、二者択一を迫り、その一者として天皇制が利用される可能性がある)、すなわち解散命令による宗教団体の弾圧は簡単にできるようになるのである。
宗教はそもそもその現世批判的性格から反体制的になりやすく、古今東西、弾圧の対象となり続けてきた。
戦前における我が国の宗教弾圧の歴史を思い起こしても、今回の東京地裁決定はその弾圧を容易化する道を開くことと言わざるを得ない。
宗教において転向、棄教というのはよくあることであり、信者のときになしてしまった財産上の損失を回復、救済することが宗教による被害者を減らすためにとても大事である。
それを信じてしまった者の自己責任として放置すれば、将来においても宗教による被害者を発生させ続けることになる。
このことが統一教会の事件で明らかになったことの1つだと思う。
宗教に特有の問題といえるこの問題の円滑な解決のための特別のルールを立法化することが今後のために必要なのではなかろうか。
その内容は宗教法人に対する献金返還請求への応諾義務、返還用準備金保有義務、資金提供記録の作成保存義務の賦課等である。
それによって「一時的熱狂」「マインドコントロール」による「被害」「損害」の発生が事実上抑止され、すなわち宗教による「財産権の侵害」や「公共の福祉を害する事態」の発生が抑制され、結果的に宗教弾圧につながる道の1つを閉ざすことになるだろう。
こういった根本的問題に取り組まず、目先の統一教会の問題の処理だけに終始していては、宗教が抱える問題をかえって悪化させ、宗教が本来持っている、人間にとって重要な役割の発揮を妨げてしまうことになるのではないかと懸念される。