2025年1月7日

 

 生活水準維持の困難に立ち至った時、また困難が予想される時、情報機会に恵まれず、その構造的で複雑な要因に思い至る訓練を十分に受けていない一般大衆は、目の前の分かりやすい説明を提示されると、容易にそれに飛びつき、困難は除去できると単純に主張する勢力に取り込まれてしまいがちとなる。

 これが今日、先進諸国に急速に拡大しつつあるポピュリズムである。

 

 一般大衆が飛びつきやすい、目の前の分かりやすい説明とは、視覚的にも感知しやすい、すなわち人間の姿をした「悪(evil)」の存在を困難の原因とするものである。

 我々の困難は、我々に困難をもたらそうとする悪意ある他者たちによって引き起こされたものであるという説明である。

 このためポピュリズムは排外民族主義を半ば必然的に帯びることになる。

 排外民族主義はポピュリズム必携の思想として存在する。

(もう1つのポピュリズムとして「悪(evil)」を富裕階級に求めるものがある。これは分かりやすさという意味で排外民族主義に劣るとともに、現実の社会主義勢力の衰滅によりポピュリズムの採るところとはなりがたくなった。)

(排外民族主義に対する反論は攻撃を誘発する。相互依存関係を説いても、他者たちは善意であるという主張ととらえられがちであり、利敵行為とされてしまうからである。)

 

 排外民族主義の世界的蔓延は、恐怖の均衡が崩れる時、一挙に全面戦争となる。

 今や危機はかなり切迫していると考えなければならないだろう。

 

 さてポピュリズムが戦争の危機をもたらすとすれば、ポピュリズムを抑えればいいのだろうか?

 ポピュリズムを抑えるとは、いかなる体制を採用することを意味するのだろうか?

 理屈上、その答えは知的エリートによる専制主義ということにならざるを得ない。

 前衛による大衆指導、すなわち民主集中制という共産主義の発想はこれだ。

 しかし、この発想は知的エリートと一般大衆とが厳然として区別可能であることを前提としている。

 しかし、今日の一般大衆には、高度複雑化した社会を担うものとして高度な知的訓練が施されなければならない。

 この結果、高度産業化社会では知的エリートと一般大衆という区分は早晩消滅せざるを得ないのだ。

 知的エリートを一般大衆が納得する方法で抽出することは不可能となり、高度産業化社会では知的エリートによる専制主義は宿命的に受け容れられない。

(中国共産党はこの問題に直面しつつあり、対処せざるをえない。)

 

 ポピュリズムによる危機を克服するためには、「大衆による支配」という原則は維持する以外に道はない。

 一般大衆のひとりひとりが知的エリートたるべく、政治を担いうるように育て上げ、知的で健全な大衆のもとでの民主主義が成立するようにするほかに道はない。

 一般大衆がおかれている「情報機会に恵まれず、その構造的で複雑な要因に思い至る訓練を十分に受けていない」という制約を打破し、「目の前の分かりやすい説明を  提示されると、容易にそれに飛びつき、困難は除去できると単純に主張する勢力に取り込まれてしまいがち」というその性格を克服する、迂遠ながらこれ以外に方法はないのだ。

 始まったばかりのこの1年は、ポピュリズムが持つ危険性を一般大衆が知らしめられる1年となるであろう。

 将来に有効な、貴重な教訓を人々が学ぶことができる反面教師的な1年であろう。

 トランプが、プーチンが、そして各国で台頭する極右勢力が反面教師の役割を演じてくれるだろう。

 しかし、運悪くそれらが爆発して大戦争になり、とんでもない多数の人命が失われることにもなりかねない。

 人類に学ぶチャンスを与えよと祈るしかない。