2024年11月4日

 

 AI(artificial intelligence)の急速な発展によって、AIは人間の知能のレベルに到達できるのではないか、到達できないとすればAIと人間の知能との間にどのような本質的な違いがあるのか、というような議論が本格化してきた。

 それまではAIが急速に発展してきたからとはいっても、人間の知能にまでは到底及ぶまいという楽観的(?)な考え方が一般的であった。

 しかし、チャットGPTといったものの登場によって、人間並みあるいは人間を超えるアウトプットがAIから生み出されるようになり、にわかにリアリティをもってこの問題が論じられるようになってきたのである。

 「脳」が物質であり、「脳」の活動が物質的現象である以上、AIはいずれそのレベルに達するであろう、そこに原理的な限界は無いであろう、というようなことが決して荒唐無稽なことではなくなってきたのである。

 

 さて、ここで登場してきたのが「記号接地問題(symbol grounding problem)」である。

 AIは「いちご(strawberry)」ということばを人間以上に巧みに操って、いろいろな文章を作ることができる。しかし、人間が「いちご」ということば(symbol)で実際に感じている色、形、味、香り、手触りといった地に着いた実物感(grounding)をAIは持っていない。ことばとしての「いちご」を操っているだけだ。

 人間の扱うsymbolは地に着いている(groundingしている)が、AIの扱うsymbolは抽象的なsymbolにとどまっている。

 ここにAIと人間の本質的な違いがあるというのが、「記号接地問題」である。

 その違いは、単なる違いにとどまらず何らかのアウトプットの違いとして現れてくるだろう。

 人間はやはり、AIでは到達できない、特別な精神的存在なのだ。

 人間の知能が物質に還元されてしまうことを好まない人びと、さびしく思う人々(精神、心、魂の実在論者)に、「記号接地問題」は期待を抱かせた。

 

 しかし、「記号接地問題」は程度の違いにすぎず、本質的違いではないという反論が出てくる。

 色、形、味、香り、触感に関するセンサーをAIに取り付け、それを情報処理し、アウトプットに反映させれば、それは人間のsymbol groundingからのアウトプットと質的に同じではないか。

 人間のgroundingでも個人ごとに大きく偏りがあり、不完全である。

 それを考えれば、高度なセンサーによって「grounding」したAIの「grounding」のほうが、人間の「grounding」より優れているのではないか。

 現状ではAIが情報の処理の対象を主にことばとしていることから「記号接地問題」が浮かび上がってくるのであって、各種の感覚を感知するセンサーの充実によってそれは克服されるはずだ。

 やはりAIは本質的に人間の知能と変わるところはない。

 精神、心、魂の実在論者を悲しませる、このような反論である。

 

 この反論に対して、「目からうろこ」の説に遭遇した。

 今年9月に刊行された岩波新書「学力喪失―認知科学による回復への道筋(今井むつみ著)」である。

 同書は、本稿のようなAIと人間の違いの問題を正面から論じようとしたものではない。(それを求める場合は岩波新書「言語の本質(今井むつみ、秋田喜美著)」)

しかし、そのキャッチコピーとして「「記号接地」がひらく学びの未来」を掲げ、次のように述べているのだ。

 「人間が乳幼児期にすることを一言で表せば、「世界を自分の身体で探索すること」だとゴプニック博士(注:国際認知科学会の今年のメールハート賞(認知科学のノーベル賞といわれる賞)受賞者)は語っていた。そう、まさに記号接地なのだ。」

 「「探索し、探求し、自分を世界に接地しようとする存在」としての人間。」

 「要するに、人間とは、問題解決に成功することだけを目的として探求する生き物ではないのだ。モノに身体で触れて、つかみ、動かし、そのモノを理解しようとする。同時に世界の仕組みを理解しようとする。」(以上の引用は同書p292~293)

 

 すなわち、「モノに身体で触れて、つかみ、動かし、そのモノを理解すること。探求し、探索し、世界の仕組みを理解すること」を「接地」とすれば、AIと人間の違いは、「接地」があるか・ないかという点にあるのではなく、「接地」をしようとするか(人間)・「記号」の扱いに甘んじて「接地」しようとしないか(AI)という点あるのだ。

 (乳幼児からの性質であることからして、たぶん「本能」によって)人間は「接地」しようとモノに挑んでいく。

 これに対し、AIは自ら、主体的に、「接地」しようなどということはない。

 「接地」への積極性、自発性、意欲という点においてAIと人間はまったく異なるのだ。

 

 AIと人間の知能との違いとして取り上げられるもう1つのものに、「アブダクション(abduction)推論」がある。

 荒唐無稽といえるような、当てずっぽうを含む仮説を提起する能力である。

 演繹は当たり前に成り立つのだから推論とは言えない。

 当たるか当たらぬかまったく当てもない、不確かな推論らしい推論が「アブダクション推論」である。

 「水平思考」というのもこれに当たるかもしれない。

 関係のない分野のことをあっと驚くように結び付ける考え方のことである。

 そういう「水平思考」や大胆な推論をする能力は、AIにはない。

 「月にうさぎがいる」とか「地球の果ては大きな滝になっている」とかいうことをAIはオリジナルには決して言わないのだ。

 幼児がことばを覚えるのはこの「アブダクション推論」によると言われている。

 大人たちのことばを聞いて、これなら通じるのではないかと推論して、ことばを発してみる。

 そして通じたり通じなかったりする経験を積み重ねていく。

 もちろん無意識のうちにだが、そういう試行錯誤を繰り返して幼児はことばを覚えていくのである。

 幼児期に鍛えた「アブダクション推論」を人間はその後も駆使して、知識を豊かにし、文化文明の獲得にまで至るのだ。

 AIにはこのような知識の発展をもたらす基礎となる「アブダクション推論」をしない。

 AIと人間はここにおいて大いに異なる。

 

 ここで「アブダクション推論」を考えてみると、積極性、自発性、意欲がなければ「その気にならない」ということに気がつく。

 「アブダクション推論」は、積極性、自発性、意欲に支えられているという意味で「世界の探索、探求」をめざす「接地」の場合と同じなのだ。

 さらに、当たるか当たらぬかの「アブダクション推論」はそれを確かめてみようという意欲を引き出す。

 (「月のうさぎ」「地球の果ての大滝」は月の観測、冒険航海につながっているにちがいない。)

 「確かめてみる」、すなわち「接地」である。

 「アブダクション推論」は「接地」につながる積極性、自発性、意欲をもたらすものでもあるのである。

 

 「接地」「アブダクション推論」は、それがもたらす成果によって人間の知識を飛躍的に拡大させてきた人間の知能である。

 そしてその知能を稼働させるためには、積極性、自発性、意欲がその前提として必要である。

 AIは潜在的能力としてそれを有しているかもしれないが、その能力を稼働させる前提としての積極性、自発性、意欲に欠けている。

 このような意味で、AIと人間の知能との間には本質的違いがあるのだ。

 積極性、自発性、意欲とは、「生きる」「生きている」「生きようとする」ということである。

積極性、自発性、意欲を「生命力」の現れと言ってもいいだろう。

 AIは生きてはいない、人間は生きている。

 AIには生命力がないが、人間には生命力がある。

 結局、AIと人間の知能の違いは厳然として存在しているのであり、それは生命力の有無に起因しているのだ。

 実に当り前の結論がここで得られることになったのである。

(蛇足:上記の「生命力」が物質的基礎により発生することが明らかになったあかつきには、AIと人間の知能との関係に新たな地平がひらかれることになると推論される。この推論は「アブダクション推論」であろうか?)