2024年10月11日
石破自民党総裁は、裏金問題により非公認とした衆院議員候補者が当選した場合、公認がありうると明言した。
選挙による「みそぎ」という言葉が政界では当然のごとくまかり通っており、その「みそぎ」を受けたということなのであろう。
しかし、「みそぎ」などというものは、理屈の立たない、おかしな慣習と言うほかはない。
「みそぎ」などを持ち出してくるのは無責任であって、党の都合、利益を優先し、国民を愚弄し、無視するものと考えられる。
公認とは、政党として、国民に対して、立候補者を政治家として保証し、推薦するという意義を有するものである。
当然のことながら、公認することによって、政党は国民、特に選挙区の有権者に対して候補者を保証する責任を有するのである。
小選挙区に複数の党員が立候補した場合、票の分散、共倒れを防ぐために、そのうちの一人だけが公認される。
結果として公認されなかった者が当選し、事後的に公認されるというのはよくあることである。
この場合は、事後的に公認された者に不正不当行為があったから公認しなかったというわけではない。
複数の候補者に優先順位をつけざるを得なかった結果として、公認されなかったのである。
公認するに足る条件を有していなかったというわけではないので、当選によって優先順位が上がって公認となるという理由は納得できる。
しかし、今回の場合は、政治資金規正法に違反し、かつそのことについての説明責任を十分に果たさず、事態解明にも協力しない、すなわち遵法精神に欠け、政治倫理が不十分という、政治家としての「重大な欠陥」があることに着目して公認せず、推薦しなかったはずだ。
この「重大な欠陥」は当選したということによって拭い去れるものではない。
起訴にまで至らなかったとしても、政治家としての基本的資格にかかわる重大な罪を犯したものであるという事実、及びその後の不誠実な行動に見られた政治家としての不十分性への疑いは当選では解消されないのである。
彼らの「重大な欠陥」はまったくカバーされず、克服されないままである。
当選という事実があっただけでの公認とは、まったく理屈が立たず、自民党の無責任というほかはない。
なお、今回の衆院選挙でもう一つの許しがたい、国民を愚弄する大きな無責任が公明党によって行われる。
すなわち、自民党非公認となった西村康稔元経産相(兵庫9区)と三ツ林裕巳前衆院議員(埼玉13区)を公明党が「推薦」するのだ。
その「重大な欠陥」により自民党さえ公認せず、推薦しない、すなわち有権者に対してその政治家としての資格を保証しない2議員を、公明党はどのような特別の要素によって推薦するのだろうか。
公明党が2議員に対して特別の調査を行って自民党とは異なる判断に至ったというような事実はない。
公明党候補者(その中に石井啓一新代表もいる)当選のための選挙協力を得ようとの御都合主義での無責任推薦なのだ。公党としてあるまじき、恥知らずの行為と言わざるを得ない。
裏金議員のなかでも特に罪が重いとされている議員を、自民党と異なる判断をしてまで有権者に推薦するなどということを、何の躊躇もなく平気で行うことができる政党が、政治改革などとよく言うことができるものだと、呆気にとられる、開いた口がふさがらない。