2024年8月31日

 

 以下は、ジョイスのつまみ喰いかつ矮小化であり、我田引水的なものなので、ジョイスの壮大な迷宮を楽しんでおられるファンのみなさんにあらかじめその無礼をお詫び申し上げておきます。

 

 ジェイムズ・ジョイス(1882~1941、アイルランド)の「ユリシーズ」(丸谷才一、永川玲二、高松雄一訳、集英社。なお装丁は和田誠)をやっとのことで読み終えた。

 「やっとのことで」というのは、大部3冊にわたる長編を、ほとんどが何が何やらわからないまま、ちんぷんかんぷんを耐え忍んで、ということである。

 「ユリシーズ3」巻末の「巨大な砂時計のくびれの箇所」と題された丸谷才一の「解説」で、ちんぷんかんぷんだった理由を少し理解することができた。

 すなわち、

「それは言語遊戯によるカテドラルのやうな長編小説」

「ダブリンといふ都市の多言語的な状況(本来の国語としてのアイルランド語、政治的=文化的強制による国語としての英語、教会の言語としてのラテン語、オペラの言語としてのイタリア語、その他)‐‐‐その条件を利用しつくすジョイスの才能および、在来の小説技法に対する果敢な対立」

「『ユリシーズ』の地肌で最も重要なのは言葉遊戯である。具体的に言へば、まづ、洒落‐‐合成語‐‐造語‐‐楽屋落ち‐‐パロディ‐‐パスティーシュ(注:作風の模倣)‐‐冗談‐‐詭弁‐‐変痴気論‐‐糞尿譚‐‐ポルノ‐‐歌詞の引用」

「人間の言語生活は、諺、名つけ、言ひ誤り、聞き違へ、書き誤り、読み違へ、言ひよどみ、噓、ほら、誇張、引用、引用の誤り、方言、外国語、外国語のまぜこぜ、‐‐‐といふ調子で、あらゆる局面が(「ユリシーズ」の中で)くまなく押へられる。」

 

 また、同じく「ユリシーズ3」巻末の「ダブリン気質」と題された永川玲二の「解説」にはこうある。

「それにしてもなぜ彼ら(注:スペイン人とアイルランド人、もちろんアイルランド人たるジョイスが念頭におかれている。)は不条理や逆説をこれほど大事にするのだろう?マダリャーガ(注:スペイン人の外交官、歴史家、亡命者)の見解によると、その根源にはラテン的な個人中心主義がある。別の言葉でいえばこれはゲルマン的、アングロサクソン的な社会意識や客観性のかけらも無いということだ。スペイン人もアイルランド人も自分の心の外側にある社会とか現実を信じない。それとの衝突が起こったとき、間違っているのは自分ではなく外側の全世界である。何とかそれに対抗するためには、論理性だの正攻法だの常識だの、いずれにしても鈍重で凡庸陳腐な代物が役に立つはずはない。」

 

 ということは、すなわち、不条理と複雑な言語生活をジョイスとほぼ同じくしている特異な人々とオタク的ジョイス熱中者でなければ、「ユリシーズ」を読むことは~読むとはいったいどういうことかという問題をはらみつつ~不可能だと言っていることにほぼ等しい。極めて限られた範囲の人しかジョイスの読者たりえないということだ。

 しかしながら、そのような普遍性、論理性、客観性に欠けると思われる作品を書いたジョイスが、20世紀を代表する二人の小説家の中の一人(もう一人は「失われた時を求めて」の著者、フランスのプルースト)とされており、また、世界中の多くの作家がジョイスの影響を受けて名作を書いているとされているのである。

 

 いかなることなのであろうか?

 おそらく、ジョイスの作品は、ニーチェをその象徴的始点とする「神の死」の認識、「人間が勝手に世界を作ってやっていけばいい」という「(神の側からすれば)人間界への不関与、ネグレクト」、「(人間の側からすれば)神からの離脱・独立、ある意味での見捨てられ、lost状態」が、小説界にもたらさずにはいなかった帰結と言えるだろう。

 神の意思を伝達する「ラテン語」を頂点とする諸言語が、世界を形成する言語としての地位を喪失し~「はじめに言葉ありき」という前提が廃棄され~諸言語はバラバラに解体され、それに代わる普遍を語りうる言語を人類が獲得することができないという現状を~この現状が宿命的なものか、克服し得るかは問題として残っていると思われるが~冷静に認識したときに、小説がその基盤とすべき堅固なる言語基盤を喪失し、小説とは誰のために何をするものなのかという根本的な問題が提起されざるを得なくなるという、その到達点に現れた小説家、それがジョイスなのだろう。

 もはや、作家は全人類的理念理想などという普遍志向を捨て、作家のごくごく狭い、同じ言語経験を有する範囲にいる、作家の言語遊戯を歓楽として楽しめる人々に楽しんでもらえばそれでいい、という認識への到達である。

 そして、小説の全人類的役割というような幻想にさいなまれていた世界中の文学者、小説家にとって、それはある意味での解放であり、新たな、リアリティのある、小説のあり方を提示するものであったのであろう。

 ジョイスと同じアイルランド出身のワイルド(1854~1900)は、芸術は自然を模倣するのではない、逆に芸術は自然を創りだすと言い、同じくアイルランド出身のイェイツ(1865~1939)は「夢を見ろ、夢を、これもまた真実だから」と歌っているという(「ユリシーズ3」巻末の「ワイルドとその後」と題された高松雄一の「解説」)。これもジョイスと同じ方向性のもとで、普遍性の放棄によってはじめて可能となる人間による非普遍的世界創造を語っていると考えることができよう。(注:「芸術」「夢」に『あなたの、ユニークな、個別的』という形容を補って考えている。)

 

 我が国では江戸時代の戯作文化にこのような性格があったように思える。

 それは儒教、仏教、そして武士道(=ある種の普遍への志向)への幻滅の然(しか)らしめるところであった。

 明治以降の日本文学は、このような観点からすれば、普遍という幻想への困難な道を再びたどろうとしたのではなかったか?

 昨今の活字文化の衰退、一方での漫画文化の隆盛は、あるいは「よしもと新喜劇」、とりわけ最近のアキの言葉にならぬ言葉を駆使する言語遊戯は、このような流れのなか で考えることができはしないだろうか?

 「グループチャット」「小ライブ」「絵てがみ」といった極小コミュニケーションの流行も、同様に普遍を断念した一つの到達なのではなかろうか?

 般若心経における「色即是空」という認識は、「色」(=「世界」)が普遍たりえない(=「空」)ということを示しているのではないか?

 ひるがえって、「神の支配」が続いていると思われるイスラム世界において、依然として普遍にこだわる世界において、言語遊戯はどんな状態に置かれているのであろうか?

 その存在の余地はないのではなかろうか?

 神を冒涜するものとして、あの「悪魔の詩」事件のごとく、社会的制裁の対象とならざるをえないのではなかろうか?

 一方で、このような文化、言語、社会的・歴史的経験を同じくする者たちだけの限定された範囲のコミュニケーションが遠距離で、全地球規模で可能となっているという事実がある。

 それを可能とした条件として、グローバルな性格を本来的に有しつつ、ミクロに対応できるというIT技術の発展がある。おもしろい皮肉があるのではないだろうか?