2024年7月15日

 

 現在の日本経済の苦境をもたらした根本的原因と筆者が判断しているのが1985年9月の「プラザ合意」である。

 岡本勉氏は「プラザ合意」を「1985年の無条件降伏」(光文社新書)と呼んでおり、「プラザ合意」を1945年夏の敗戦に続く「2度目の敗戦」とする評価もある。

 本通信では第165号「プラザ合意・バブル・宮沢喜一」(2007年6月29日)と第1410号「『1985年の無条件降伏』について」(2021年8月17日)で「プラザ合意」を取り上げた。

 筆者の推測するところによれば、「プラザ合意」以前の1ドル=240円水準をせいぜい200円程度の円高とすることが、「プラザ合意」関係者の大方の理解だった。

 そして、その程度の円高は、当時深刻な問題であった日米貿易摩擦を緩和するものとしてむしろ肯定的に受けとめられていたのである。

 しかるに、想定をはるかに超えて、翌年の1986年には1ドル=150円水準に、翌々年の1987年には120円水準にまで円高となった。

 「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とたたえられていた日本経済は、その基盤を一挙に切り崩されることになったのである。

 

 沈没とは言わないまでも、日本丸の現在の座礁をもたらした原因が予想を超える急激な円高にあることは間違いない。

 にもかかわらず、その円高がどのようにしてもたらされたのか、今日に至るまで未解明のままである。

 この急激な円高はすべてが合意され、政策的に誘導されたものであるのか、どこかからは合意を越えた、市場がもたらしたものだったのか、それが明らかになっていないのである。

 そして、その謎をさらに深めることになるのではないかという情報が、7月14日(日)の朝日朝刊「宮沢喜一日録」で報じられた。

 

 「プラザ合意」直後、「プラザ合意」は日米貿易摩擦を緩和し、アメリカの保護主義的動きを抑えるものと受けとめられた。

 そのための円高が日本経済に試練をもたらすとしても、2度にわたる石油ショックを乗り越える力のあった日本経済にとって克服可能なものと受けとめられた。

 少なくとも「プラザ合意」直後には、それが日本経済に致命的な影響を及ぼすというような危機感は生じていなかったと考えられる。

 自由貿易体制を守るためのやむをえざる措置として肯定的に受けとめるというのが「プラザ合意」直後の一般的雰囲気だったと言っていいだろう。

 しかるに「宮沢喜一日録」記事によれば、当時自民党総務会長だった宮沢喜一は、「プラザ合意」を終えて帰国した竹下登蔵相に対して、「竹下さん、あなた、自分が何をやってきたかわかっているんですか」と首相官邸での会合で面罵しているのである。

 その時点での「プラザ合意」評価として特異であると言わざるを得ない。

 このことは、竹下が合意してきた「プラザ合意」の実質的な内容のうちに日本経済にとって深刻な内容が含まれていることを、宮沢が察知していたということを強く示唆するものと考えられる。(「宮沢喜一日録」から大蔵省が宮沢に逐一状況を報告していたことは間違いない。)

 宮沢の竹下面罵の場にいた加藤紘一は「宮沢、安倍(晋太郎)、竹下で、もうじき終わる中曽根(首相)の後継は誰なんだろうという、安竹宮の戦争に入っていた」と政治的背景を語っているようだが、宮沢が一般的評価とは異なる「プラザ合意」評価を、何らかの情報をもとに、持っていたがゆえに、竹下に批判的感情を持っていたことが、宮沢らしくない「面罵」ということから感じられる。

 ドル安是正・円高誘導についての目標水準あるいは市場介入ルールについての日米間での秘密合意の存在、そして宮沢がそれを知っていたことを、その後の予想外の急激な円高、日米通貨当局のそれへの対応ぶりが示しているとも考えられるのである。

 日本経済は日米秘密合意によって国際的地位の急降下という今日を迎えたと言えるのかもしれないのである。

 

 そして、「プラザ合意」は敗戦・無条件降伏という事件的捉え方にとどまらない、世界資本主義体制観に及ぶ内容をはらんでいる。

 資本主義的市場経済において国家の果たす役割、その実力と限界、また、そのことを背景にした国家と国家の間の競合関係、それらを「プラザ合意」をめぐる一連の出来事は示すものと考えられる。

 若き経済学者たちがこの問題に取り組んでいないはずはない。

 その成果を大いに期待するところだが、我々世代はそれを享受することができるだろうか、それが問題だ。