2024年7月10日

 

 普通一般の人間が人間世界を直角三角形と認識していたとします。

 (ここで「人間世界」とは、直角三角形を持ち出してきたからといって自然科学的構造のことをいうわけではなく、人文科学・社会科学的要素を含め、過去現在未来に及ぶ人間世界全体のことであり、そこでの個人の存在の有り様もその内容とするものです。それを一図形にしてしまうというたとえはちょっと強引ですが、我慢してください。)

 その認識には直角三角形が有するもろもろの特性についての認識はなく、3つの角のうちの1つが直角の三角形という素朴な定義的な認識だけにとどまっていたとします。

 

 ある卓越的な者が、補助線としてその直角三角形に外接円をもってきて、そのことによって直角三角形の斜辺が外接円の直径であるという認識を提供したとします。

 人々は新たな認識を得て、人間世界を見直すことになります。

 新たなる人世界を認識することにより、生きがいを感じたり、救済を感じたりして、新たなる人格に至ります。

 

 別の卓越者は、補助線として直角三角形に内接円をもってきて、そのことによって直角をはさむ2辺の和と斜辺の差が内接円の直径に等しいという認識を提供します。

 人々はその認識による新たなる人間世界、そしてそれに基づく生きがい、救済、新たなる人格を得ます。

 

 更に別の卓越者は、斜辺を1辺とする正方形及び他の2辺の和を1辺とし、この正方形に外接する正方形をもってきて(ピタゴラスの定理の証明方法参照)、直角三角形の斜辺の2乗は他の2辺のそれぞれの2乗の和に等しいという、すなわち三平方の定理、ピタゴラスの定理の認識を提供します。

 人々はその認識による新たなる人間世界、そしてそれに基づく生きがい、救済、新たなる人格を得ます。

 

 普通一般の人間は補助線を引くという能力がなかったとします。

 卓越者が提供する直角三角形についての新たなる認識は相互に断絶することとなり、それぞれの認識を得た人々は他の人々の認識を理解し得ず、世界観、生きがい、救済根拠を異にすることになります。

 卓越者がそれぞれの補助線をもってきて提供する新たなる認識とは、現実世界における「宗教」、「思想」、「主義」にあたるもので、それぞれ、世界観、生きがい、救済根拠を異にしています。

 相互の断絶、相互の無理解により、かけがえのない自分たちの世界観、生きがい、救済根拠の正当性をそれぞれが主張して人々は争うことになります。

 あまりにも人間社会の根幹にかかわる事柄であるがゆえ、人々のアイデンティティ、レーゾンデートルを揺るがすものであるがゆえ、その争いは血を血で洗う悲惨な戦争にまで至ります。

 

 それぞれの卓越者がもたらした新たなる認識は、しかし、人々が認識していた直角三角形に当初から備わっていた性質です。

 気づかなかっただけで、当初から存在していた性質であり、補助線が引かれることによって気づいたということだけのことです。

 争いの無意味であることは、以上から、次元を高くして眺めれば、明らかであるといわなければなりません。

 人類はその無意味に気がつかないでいるというのが現状です。

 もしかすると、卓越者たちは既にそのことを知っているにもかかわらず、追随者を多数かかえてしまったという立場上、知らないふりをしているのではないかという疑いもあります。

 しかしいずれにしろ、事実がたとえ話のごとくであったとすれば、人類は早晩、補助線を引く能力を獲得し、争いの無意味なることに気がつくにちがいありません。

 

 以上のたとえ話とわれわれが直面している現実と、どこがどう違うのか、あるいはピッタリ本質をとらえているのか、真夏の寝苦しい夜に考えてみましょう。