2024年7月2日

 

 総裁候補高市早苗の経済政策について書こうとしたのだが、「?」を付けざるをえなかった。

 6月30日の朝日朝刊で高市早苗の総裁選出馬意向が報じられ、「(関係者に対し)総裁選で掲げる政策にも言及。積極的な財政出動を訴えていく考えを示したという。」とされた。しかし、翌日のヤフーニュース掲載の産経記事によれば、この報道は高市本人によりX(旧ツイッター)で否定され、「高市潰し」をねらったものとされたのであり、したがって「総裁選で積極的な財政出動を訴える」というのも幻となったのである。

 安倍派の解体に伴い、アベノミクスの柱だった「積極的な財政出動」という看板が、根強い支持勢力を持ちながらも、やや控えめとなったことを筆者は残念に思っていた。

「積極的な財政出動」を支持する立場からではなく、「積極的な財政出動」を大きな間違いとする立場からである。

 政策が人格化されているほうが攻撃しやすいからであり、政策を象徴する政治家がいてくれると批判も理解・共感を得やすいからである。

 そういう意味で高市早苗が総裁選に出馬し、「積極的な財政出動」を主張してくれるということは、筆者にとっては季節的にもピッタリの「飛んで火にいる夏の虫」の意義を有する、歓迎すべき事態であった。

 これをきっかけに「積極的な財政出動」論の息の根を止めてやろうとの意欲が湧いてきたのである。

 しかし、残念ながら、高市本人の否定により、この目論見は事前に潰え去ることになった。その否定振りからして、また客観情勢からして、高市の総裁選立候補はないと判断するほかないだろう。

 

 しかし、せっかくだから、「積極財政論」をちょっとやっつけておこう。

 もちろん、「積極財政論」は常に間違っているわけではない。

 「積極財政論」は、次の3つの場合においては、肯定される正当な政策である。

 すなわち、その第1は、需要不足が一時的、短期的なものであり、「積極財政政策」が一時的、短期的景気後退によるショックを緩和し、自律的景気回復につなげる場合である。

 その第2は、「積極的財政政策」により投じられる資金の投資効果が、資本形成が民間にゆだねられる場合よりも大きいと見込まれる場合である。

 その第3は、ある理念のもとで資源配分を政策的に変更し、社会にとってその理念が実現されることが、経済的最適性の観点から優先されるべきと考えられる場合、すなわち最適性に関する経済思想の転換の場合である。

 

 逆に言えば、①生産力が低下し、回復の見込みに乏しく、更なる生産力の低下が懸念されるような構造的な問題を抱える国で発生している投資意欲の喪失、消費減退による需要不足状況において、②投資リスクを負うことがない政治家、官僚(シュンペーターのいう「起業家精神」の担い手とはされがたい者たち)が主導するプロジェクトに資金を投入し、③目指すのは従来どおりの経済パフォーマンスでしかないような「積極財政論」では、恣意的なバラまきが行われるだけであって、財政の悪化、インフレ、非効率産業企業の滞留(経済の新陳代謝の不全)、人的資源をはじめとする資源の無駄遣い、通貨安によって当該国の経済力はますます低下することになるのである。

 

 アメリカでは「積極財政論」は民主党左派によって主張され、民主党左派は弱者、マイノリティ等貧困階層のための対策に積極的に財政支出が行われるべきだとし、そのことによる経済構造の変化こそがアメリカ経済を真に強化するものであり、また格差なき社会という理念に通じるものだとしている。

 それが政治的に支持されるかどうかはさておいて、「積極財政論」が肯定され、正当とされる場合の第2と第3によって自分たちの政策の正しさを立論しているのである。

 

 一方、我が国で「積極財政論」を主張している人々は、デフレ経済からの脱却と叫びながら、当面の景気回復を目指しているだけにすぎないように思われる。

 彼等は積極財政のもとで具体的には何処に資金を投入するとしているのであろうか?

 その投入はいかなる意味で「積極財政論」が肯定され、正当とされる場合に該当すると説明するのであろうか?

 ポピュリズム傾向を強める政治家たちからの諸要求を「積極財政論」はうまくさばけるのであろうか?

 日本の現実は、「積極財政論」が、恣意的なバラまきが行われるだけで、当該国の経済力はますます低下させることになる場合に該当するのではなかろうか?

 

今、この問いを総裁候補高市早苗に投げかけることができないのは残念である。