2024年4月22日

 

 永井荷風の『花火』は大正8年7月、荷風39歳の作品である。

 『花火』は、もちろん荷風の実社会への冷ややかな、非関与というスタンスは変わらないものの、荷風が国家、社会に対する意識をかなり直接に表に出した珍しい作品である。

 『花火』は一般に、荷風が自ら、その文学者としての人生を江戸戯作者的なものに限定した動機・原因として、大逆事件における明治政府の不正義・理不尽に対して、自分がドレフュス事件に対して戦ったフランスの小説家ゾラの如くに戦えぬことを情けなく思い、自分を蔑んだためとしたものとして取り上げられることが多いようである。(大岡昇平はこの荷風の告白を「自己の無為を正当化するもの」として批判している。)

 しかし、『花火』はそれにとどまらず、学校で習った日露戦争の講和条件に抗議して発生した日比谷焼打ち事件、米価騰貴に怒って全国的に発生した米騒動の背景をなす、明治、大正期の庶民に形成されていた不安定な、自暴自棄的な心情を推測させてくれる。

 

 『花火』で言及されているは次の11件の社会的事象である。 

1東京市欧州戦争講和記念祭(執筆時)

2憲法発布祝賀祭(明治23年)

3大津事件(ロシア皇太子切付け)(明治24年)

4日清戦争開戦(明治27年)

5奠都(首都設定)30年祭における騒動(明治31年)

6日露戦争開戦(明治37年)

7日比谷焼打ち事件(明治38年)

8大逆事件(明治43年)

9事件名不詳の騒擾事件(大正2年)

10大正天皇即位式祝賀祭における騒擾事件(大正4年)

11米騒動(大正7年)

 

 そして、『花火』を読んで驚かされたのは、『花火』で初めて知った10の大正天皇即位式祝賀祭における騒動であり、それについての次のような記述である。

 「この日芸者の行列はこれを見んが爲めに集まり来る野次馬に押し返され警護の巡査仕事師も役に立たず遂に滅茶々々になった。その夜わたしは其の場に臨んだ人からいろいろな話を聞いた。最初群衆の見物は静かに道の両側に立って芸者の行列の来るのを待ってゐたが、一刻々々集り来る人出に段々前の方に押出され、軈(やが)て行列の進んで来た頃には、群衆は路の両側から押され押されて一度にどっと行列の芸者に肉迫した。行列と見物人とが滅茶々々に入り乱れるや、日頃芸者の栄華を羨む民衆の義憤は又野蛮なる劣情と混じてここに奇怪醜劣なる暴行が白日雑沓の中(うち)に遠慮なく行はれた。芸者は悲鳴をあげて帝国劇場その他附近の会社に生命(いのち)からがら逃げ込んだのを群集は狼のやうに追掛け押寄せて建物の戸を壊し窓に石を投げた。其の日芸者の行衛不明になったものや凌辱の結果発狂失心したものも数名に及んだとやら。然し芸者組合は堅くこの事を秘し窃かに仲間から義捐金を徴集してそれらの犠牲者を慰めたとか云ふ話であった。

 昔のお祭りには博徒の喧嘩がある。現代の祭には女が踏殺される。」

 

 また、5の奠都30年祭においても「式場外の広小路で人が大勢踏み殺されたといふ噂(うわさ)があった」とされ、9の騒擾においても「国民新聞焼打」「数寄屋橋へ出た時巡査派出所の燃え」「辻々の交番が盛んに燃え」「暴徒が今しがた警視庁に石を投げた」と、これまで知らなかった事件が書かれている。

 

 明治、大正期、東京には三大貧民窟と言われるスラム(四谷鮫ヶ橋、下谷万年町、芝新網町)があった。

 これに象徴されるように、後発資本主義国・日本の当時の庶民の日常的窮乏、貧富の格差は極めて重大なものであった。

 それを背景とする庶民の心の鬱屈が広く潜在する状態がその時代を通じて続いていたのだ。きっかけがあればすぐにこのような騒擾事件に発展する時代だったのだ。

 『花火』は短い文章ではあるが、今日の我々からは想像しがたい貧窮する庶民の荒廃した心情を浮かび上がらせる。