2024年4月9日
永井荷風と言えば、狭斜の巷、脂粉の巷における四季の移ろいの中での女性の生態、男女の交情を描いた脱世間の作家というように一般に理解されている。そのとおりではあるが、荷風はその作品中の登場人物の口を借りて、あるいは作品中の人物の日記、手紙のかたちで、彼が生きている時代についての社会学的とも言うべき認識を開陳している。
その鋭い、的確な認識ははるかに21世紀に至った我々の時代についても妥当する。
荷風が曲がった曲がり角は我々に時代に通じる道への曲がり角なのだった。
ここのところ筆者が遭遇した荷風の、その時代認識を以下に披露させていただこうと思う。
【「濹東綺譚」作後贅言(昭和11年)に登場する神代帚葉(荷風と交流のあった実在の人物で、街の雑学者)の語り】
「しかし今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけに行かない。何もかも精力発展の一現象だと思えば、暗殺も姦淫も、何があろうとさほど眉を顰めるにも及ばないでしょう。精力の発展といったのは欲望を追求する熱情という意味なんです。スポーツの流行、旅行登山の流行、競馬その他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているということを人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人とわれわれとの違うところですよ。」
「何事をなすにも訓練が必要である。彼ら(注:この文章でいう現代人)はわれわれのごとく徒歩して通学した者とはちがって、小学校へ通う時から雑沓する電車に飛び乗り、雑沓する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことによく馴らされている。自分の名を売るためには、自ら進んで全級の生徒を代表し、時の大臣や顕官に手紙を送ることを少しも恐れていない。自分から子供は無邪気だから何をしてもよい、何をしても咎められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富をつくろうとする。この努力が彼らの一生で、そのほかには何物もない。」
【「浮沈」(昭和17年)の登場人物越智孝一の日記】
「私の観るところ現代のわかき人たちは過去の人々のごとくに恋愛を要求していない。恋愛を重視していない。彼らが活くるためにぜひにも必要となすものは優越凌駕の観念である。強者たらんとする欲求である。これは男子のみではない。女子の要求するところもまた同じく、恋愛ではなくして虚栄である。‐‐‐‐恋愛が女子死活の大問題とされたのは過ぎ去った世のことである。男児が理想のために自由のために戦って死を恐れず、女子が愛情と貞操とのために身を捨てて悔いなかった時代は今はすでに過ぎ去っている。」
「世に人爵を求めて止まない者があるならば、これとは全く相反したものを求める者もあり得ることである。今日世人の成功と呼ぶもの勝利と言うものの何であるかを解剖して見れば、落魄といい失意と称するものの、それほど恐るべく悲しむべきものでないことが知られるであろう。‐‐‐‐‐‐心あるものが一たび現代を観察してただちに知り得るものは、嫉視羨怨の悪風ではないか。成功者の持っている者を未成功者が奪い取ろうとしている気運である。この一点より観察すれば現代の社会に起る事変という事変の真相はわけなく解釈せられ、従って恐るべきこの気運から遠ざかる道もおのずから明らかになるであろう。」
【同じく「浮沈」(昭和17年)の登場人物藤木が玉の井の私娼窟で見つけた作者不明の手紙】
「僕はある晩、千枝子さんが廊下の隅の部屋へ行ってしまった後、一人で眠られないので‐‐‐しみじみと千枝子さんの行動を観察した。そしてふと考えたのです。僕も千枝子さんのように運命や境遇に対して反抗もせず悲観もせず服従の中に安心を求めることはできないものだろうかと思ったのです。服従は恥辱ではない。僕は今まで自由思想を棄て全体主義に転向することを強者に強いられて屈服することだと考えていたんだが、千枝子さんはじめこの町の女性たちの生活‐‐‐否この町ばかりではない。女性の生涯は遠いむかしからすでに全体主義であったのだ。それをわれわれが無智だの何だのと考えたのは大乗的見地から見ることができなかったためでした。千枝子さんにはこんなことを言ったって何のやくにも立たないことは僕もよく知っていますが、そうかと云って黙っていることもできません。女性は我らよりずっと偉いばかりでなく、どこか奥底の知れない神秘そのものだ。千枝子さんが一人の男の要求に応じて、そしてすぐにまた次の男のところへ行く。その行動を静かに見ていると、僕はどうしても神秘を思わずにはいられない‐‐‐」