2024年3月21日
東京府立一中(現日比谷高校)の学生が荷風の小説に登場している。
一中生であるとは明示されてはいないが、一中生に間違いないと思う。
その小説とは荷風30歳の時(明治42年、1909年)に発表された「歓楽」である。
「歓楽」は、「私」が「文壇の先輩なる小説の大家である『先生』」(とはいっても40代)から聞き取ったという体裁をとった、「先生」の恋が語られる小説である。
荷風が実社会を捨て、狭斜の巷を彷徨う人生を選択し、その世界を描いていこうとの決断を宣言する小説という評価がなされる小説である。
(荷風にその決意をさらに固めさせた「大逆事件」は、その2年後、明治44年、1911年。)
そこでは情死を約した20歳での芸者との恋、30歳での囲われていた、人の妾との交情・同棲・別れが描かれる。
その「歓楽」の冒頭部分、日比谷公園を「私」と「先生」が散歩している。そこにボールを追っかけて中学生が走ってくるのである。
当時、府立一中は日比谷公園西北の現法務省、検察庁のあたりにあった。その中学生は一中生としか考えられないのである。
一中生の登場がそこに配されたのは、荷風が選んだ紅灯緑酒、脂粉絃歌の世界に対して、荷風が捨てた健全無垢、元気純粋の世界を対照・象徴させるためであったと考えられる。
当該部分は以下のとおりである。(中央公論社「日本の文学・永井荷風(一)」から)
「 迂曲する若葉の小道が尽きて、突然目の前に拡(ひろ)がる初夏の青空、強烈な日の光。その下に広々した運動場が、乾いて白くなった砂利まじりの面を拡げている。かなたこなたに駈け廻って、球を投げている学生の姿が、日の輝きと眺望(ながめ)の広濶(ひろさ)に対して、小さく黒く影の動いているように見える。突然一個の球が流星のごとく、ぶらぶら歩いて来るわれわれの足元に小砂利を轢(きし)って転がって来た。それを捕らえようとして、制服の上衣を脱いでシャツ1ッになった中学生が向う見ずに馳けて来て、危うく先生に突き当ろうとして、驚いて身をよけようとした拍子に、中心を失って激しく前へのめった。いつも車が衝突しても電車から人が落ちてもきわめて冷淡に見向きもしない先生さえあまりに激しい転び態(ざま)に、覚えず「あぶない」と叫んで手ずから扶け起こそうとするらしく寄り添ったが、元気な学生はそれを待たず、すぐさま起き上がって球を拾い取るや否や、運動場の方へ馳けて行ってしまった。
私は呆気にとられて、その後姿を見送った。先生も同じくその方を見送っていたが、しばらくして突然、「アナトオル・フランスの小品を思い出す。」と言った。
「十月の初め、朝早く色づいた木の葉が真白な石像の肩に一枚一枚散りかかるリュキザンブウルの公園を、雀のように飛びながら学校へ行く子供を見た時の感想‐‐‐‐。なるほどすべての物にはいつまでも、昔見たその時の魂が残っている。その魂が人を悲しましめまた喜ばすのだ。私はある活発な少年の元気を早くも十六の時に失くしてしまった。文学ほど人を早熟にさせるものはあるまい。」 」