2014年3月16日

 

 裁判官冥利に尽きると言えるであろう。

 世の裁判官はなかなかこういう機会には恵まれないであろう。

 その好機を札幌高裁斎藤清文裁判官はみごとに活かした。

 同性婚を認めない民法を違憲と断じた3月14日の札幌高裁判決である。

 次の2点において素晴らしいと思う。

 

 第1点は、法文解釈を字面(じづら)に惑わされることなく、法文の背景をなす精神において法文を解釈したことである。

 小生も同性婚は社会的に認められるべきとする立場であるが、憲法24条の「両性の合意」「両性の本質的平等」なる表現は異性婚を前提としており、このことを踏まえれば、当面は同性婚について救済的措置をとりつつ、憲法を改正するべきであると考えていた。

 このような認識のもとでは、違憲判決はなかなか困難と考えざるを得なかったのである。

 しかし、今回の判決は、憲法24条について、「両性」という表現がとられているものの、それは異性婚しか想定できなかった当時の時代的制約によるものであり、その精神は「人と人の自由な結びつき」を尊重すべきであるというところにあると解釈し、同性婚を認めないというのはその精神に反すると断じたのである。

 まさに「眼光紙背に徹」したのである。基本的人権を尊重する立場からの名判断であった。

 字面・文言にとらわれずに法の精神に立脚した判断であり、裁判官だからこそできる、そして裁判官しかできない素晴らしい決定であった。

 

 第2点は、この問題に対する政府の態度をはっきりと叱責したことである。

 政府はこれまで、同性婚を認めようとの社会の変化を感じつつも、同性婚を認めない保守層への忖度から、国民への影響が大きく、国民の意見、評価をよく聴くべきであるというような理屈をつけて、この問題に消極的態度をとり続けてきた。

 このことに対し、判決は(裁判長の付言として)はっきりと、基本的人権が尊重されていないことによる弊害が深刻で、緊急に措置されるべき状況にあり、一方、同性婚を認めることによる社会的不利益の発生は認められないと、事態を冷静に、客観的に判断したのである。

 政府、国会のサボタージュを許さない、裁判官としての責任ある立派な態度であったと考えられる。

 

 裁判官とはこのような判決を書くために待機している人たちと考えてもよい。

 かなりの数の事件の判決はAIによって代替可能とも考えられるのであるが、AIの眼光は紙の表面にとどまるのであり、眼光を紙背に徹しなければ書けない今回のような判決はAIには書けないと考えられる。

 すなわち、今回の判決は、AIによって乗り越えられることのない専門的知性の必要性とその存在を天下に知らしめ、裁判官のレーゾンデートルを明らかにしたものであり、さらに言えば、人間賛歌の意味をも有するものであったのである。