2024年3月15日

 

 「知里幸惠 アイヌ神謡集」(岩波文庫)を読んで、そこで展開する汎神論的世界を知ることによって、次のような感想が生じた。

 

 唯一絶対神、世界創造神としての「神」、すなわち例えばキリスト教、イスラム教の「神」と、汎神論における「神」、すなわち生きとし生ける物のみならず、非生物を含むあらゆる物に「神」が宿るとする信仰における「神」とは、まったく別の概念なのではないか?

 したがって、両者を同じ「神」という言葉で表わすのは間違っているのではないか?

 唯一神信仰に日本人が接触したとき、崇拝するというような儀式の外見、形式によって、自分たちの「神」と同様のものと唯一神を誤認してしまい、まったく違うものに対して「神」という言葉を当てはめてしまったのではないか?

 そのときにもし、まったく別の言葉が当てられていたとしたら、歴史は大きく異なるものになっていたかもしれない。

 

 そして、もし両者に共通するところがあるとすれば、それは一体どこにあるのかと考えて、次のようなアイデアが浮かんだ。

 唯一絶対神、世界創造神としての「神」と汎神論における「神」との共通点は、人間という存在がいかなるものであるのかを理解する上で利用される「補助線」としての役割を果たす、ということである。

 幾何の証明問題を解くときに「補助線」が引かれることがあるが、その「補助線」は1つに限られることはなく、「補助線」をどのように引くかによって複数の証明の仕方があると記憶している。

 複数の補助線が考えられるのと同じように、人間存在の理解のために複数の「神」のあり方があったという考えである。

 

 ただし、この場合、幾何の証明問題の場合とは違って、「補助線=神」の違いによって、人間存在がいかなるものであるかについての結論がちがってくる。証明される内容がちがってくる。

 唯一絶対神、世界創造神としての「神」に対する人間は、「神」の前にひざまずく者であり、従う者であり、神の奴隷ともされる。そこにあるのは、支配服従、絶対的断絶の世界である。

 一方、汎神論における「神」は「命あるもの」「心あるもの」として人間と同質同等であり、「神」と人間は相互に配慮し合う、友だち、仲間関係となる。

 そして、支配服従、絶対的断絶関係と友だち、仲間関係との間に、中間的な様々なヴァリエーションの宗教がある。

 結果として、宗教によって、人間理解、すなわち自己認識に様々な差異を生じさせ、民族の性格形成にも影響を与えている。

 

 「アイヌ神謡集」からは、おだやかな、ゆったりとした、こころなごむ自然の世界が浮かび上がってくるのであり、人間理解にとっての柔らかな補助線が提供されているのである。

 人類にとっての貴重な財産を遺してくれた、夭折した知里幸惠(1903~22)に感謝しなければならない。

 

(なお、日本語の「神(かみ)」の語源はアイヌ語の「カムイ」ではないかという仮説がある。他の説に決定的なものもなく、一説として生きていると考えてよいと思われる。)