2023年11月18日

 

 義務教育期間中に学ぶべきことのうち、学ぶ期間が長期にわたり、多くの児童生徒に挫折を味わわせ、自己否定的感情を醸成し、不幸を呼ぶ結果となっているものとして、次のようなものを思いつく。

 分数、小数、比率(%、〇割〇分〇厘)、漢字の読み書き、英語。

 今後の社会を展望した場合、これらのうち、分数、小数、比率(%、〇割〇分〇厘)、英語は、学ぶのを止めることはできないだろう。

 しかし、漢字の読み書きを止めることは、検討に値するのではないだろうか。

 韓国、北朝鮮では漢字を廃止し、読み書きはハングルのみとする政策がとられてきている。

 廃止による弊害の指摘に接したことはない。ロケットも飛ばしているし、世界的な先端産業も育っている。

 自分の名前の漢字表記を知らないし、書けないと韓国人に言われて驚いたことがある。

 日本でも明治期には漢字廃止、ひらがな、カタカナ、ローマ字表記が有識者から提案され、運動化されたことがあったはずだ。

 それらの運動はどうなっているのだろうか。細々と続いているのだろうか。

 

 漢字の読み書きのための時間をはぶくことができれば、学ぶのが困難なほかの項目にその時間をあてることができる。

 算数、英語のみならず、国語の読解力の向上にも大いに貢献するのではなかろうか。

 

 日本では漢字廃止に対しては、多くの弊害の指摘と強い反対が予想される。

 左右を問わず、大部分のインテリは反対するであろう。

 たしかに、情報伝達上の非効率も予想されるし、日本文化は大きく変容し、かなりの部分は日本文化から消滅するであろう。

 しかし、漢字廃止によるメリットのほうを無視した、あたまからの反対には、インテリの特権の確保という側面が、無意識にしろ、あることを否定できないと思う。

 インテリの地位などは、AIによって簡単に代替される、たいしたことはない知識によって築かれた、あやういものにすぎないのである。

 

 朝のラジオで「牛」という字を3つ重ねた「犇」という字の読み方が話題になっていた。

 その読みを知っていて喜びを感じたことを卑しきものと反省し、本稿に及んだものである。

 (なお、「犇」は「めく」と送り仮名をつけて「ひしめく」と読む。)