2023年9月30日

 

 前回推奨した真木悠介著「気流の鳴る音」のキーワードの1つが「意味への疎外」である。

 われわれの社会の、人類史における特殊性を指摘する言葉である。

 

 「疎外」とは、この場合、「人間が、本来あるべき状態になる可能性を、奪われること」と理解される。

 ふつう、「疎外」という言葉は、例えば「豊かさからの疎外」「幸せからの疎外」など、「‐‐‐からの疎外」という使われ方をする。

 しかし、本書では「‐‐‐への疎外」とされている。

 「‐‐‐に向かうことを強いられることによって」という条件が、「本来あるべき状態になる可能性を、奪われること」の原因として加わったものと理解される。

 すなわち、われわれの社会は、われわれに対して、「生」を「意味あるもの」に向けることを強い、そのことによってわれわれは、本来的に人間的に生きることが制約されてしまっている、というのが「意味への疎外」という言葉が表わしていることであると考えられる。

 

 「意味」とは何かを考えてみる。

 今回の場合の「意味」とは、「‐‐‐のため」ということを内実としている。

 「人類のため」「世界のため」から、「民族のため」「国家のため」、さらに「故郷のため」「家族のため」、そして最小単位として「特定の一人のため」ということになる。

 これらの「ため」に貢献するところがある場合、「意味」があるということになる。貢献するところがなければ「無意味」ということになる。

 そして、「‐‐‐のため」とは多くの場合、未来に向っての「ため」である。例外的には過去に向ってのこともある。「先祖のため」「伝統のため」等である。

 

 われわれには、以上のような「ため」になる人生を送ることが、「意味」のある、好ましいこととされているのであって、われわれにとって、それは当り前のことと思える。

 しかし、本書においては、この当たり前が当り前ではなく、特殊な志向であることが指摘される。

 その志向は、「意味への疎外」と消極的、否定的にとらえられる。

 「生」から活力を奪い、空虚をもたらすものとして、そこからの「解放」が課題とされるのである。

 確かに「意味」のよってきたるところを問えば、他者から与えられる外部であることに気づかざるをえない。

 本人自身に意味の根拠があるのではないのである。

 そして、「意味」は未来、あるいは過去に支えられるものであって、「現在ただ今」を根拠とするものではない。

 個人にとって、「意味」が「生」の根拠たる所以(ゆえん)は、はなはだ心もとない外部的なものであり、同時に「自由」を束縛する性質のものでもある。

 このような「意味」の構造は、「手段」としての人間評価であり、人間の反ヒューマニズム的性格をはらんでいるとも考えられる。

 しかし、それでは「意味への疎外」を回避するため、「意味」を捨てて、「自分自身」だけの「現在ただ今」にだけ「生」の根拠をもつことは、妥当であろうか。

 「刹那的」ということにならないか、「酔生夢死」で社会は成り立つか、薬物依存の生き方を否定する論理がないのではないか、というような疑問が生ずることも否定できない。

 

 このような疑問が出てくるのは、本報告筆者においては、時代、社会がもたらした特殊性によって想像力に限界があるからであろう。

 また、真木悠介(見田宗介)の思想の全体像についての不勉強のためであろう。

 そのような老兵は捨てて、社会全体として、大多数が「意味」に生きて「虚無」に陥ってしまうリスクをとるか、すべての者が「意味への疎外」から解放される道をとるか、それが検討されなければならない。

 そこから問題を解いていかないと、現代文明が直面している問題の解決策を見出せないような気がする。

 多くの「意味」が「意味」たりえなくなっており、あやしげな「意味」の誘いが氾濫しているからだ。

 ヒューマニズムの根拠があらためて求められているのだ。

 そういう新しい時代を迎えているのだ。