2023年9月28日

 

 メキシコ・インディオに仏教の「色即是空」とまったく同じ考え方が認められる。 

 その事実は、真木悠介著「気流の鳴る音」にある。(『定本真木悠介著作集Ⅰ』(岩波書店)所収。ちくま学芸文庫「気流の鳴る音」もある。)

 本書で著者・真木悠介(言うまでもなく社会学者見田宗介の別名)は、メキシコのヤキ・インディオの老人呪術師ドン・ファンと人類学者カルロス・カスタネダとの対話を通じて「トナール」と「ナワール」なるメキシコ・インディオの概念を紹介している。

 著者・真木は「色即是空」に言及してはいないのだが、紹介されている「トナール」と「ナワール」という概念は、仏教の「色」と「空」という概念とぴったり照応していると考えざるをえないのである。

(「色」とは、混沌たる外界を人間の立場から分節(仏教では分別(ふんべつ)という)し、言語化して、人間に実在と認識される〈もの・こと〉ないし〈「もの・こと」から成る「世界」〉である。一方、「空」とは、その分節以前、分別以前、言語化以前の混沌を意味し、「無」「太虚」「太極」「存在一性」等々とも呼ばれ、〈「もの・こと」を生み出す根源〉とされる。)

 

 「トナール」とは、本書においてドン・ファンに次のように語られている。(『定本』P56)

 「〈トナール〉は世界の組織者さ」。

 「その途方もない働きを言い表わすいちばんの仕方はたぶん、世界のカオスに秩序を定めるという課題を、それが背負っているということだ。われわれが人間として知っていることも、やっていることも、すべて〈トナール〉のしわざだと呪術師たちが言うのは、こじつけでも何でもないんだよ」。

 「〈トナール〉は世界を作るものだ」。

 「〈トナール〉は話すという仕方でだけ、世界をつくるんだ。それは何ひとつ創造しないし、変形さえしない。けれどもそれは世界をつくる。判断し、評価し、証言することがその機能だからさ。つまり〈トナール〉は、〈トナール〉の方式にのっとって目撃し、評価することによって世界をつくるんだ。〈トナール〉は何ものをも創造しない創造者なのだ。いいかえれば、〈トナール〉は世界を理解するルールをつくりあげるんだ。だから、言い方によっては、それは世界を創造するんだ」。

 「われわれが完全に〈トナール〉になったときから、われわれはさまざまな対立項を作りはじめる。われわれの2つの部分は霊魂と肉体だとか、精神と物質だとか、善と悪だとか、神と悪魔だとか。けれどもわれわれは、〈トナール〉という島の中の項目を対比させているにすぎないことに気付かない。まったくわれわれは、おかしな動物だよ。われわれは心奪われていて、狂気のさなかで自分はまったくの正気だと信じているのさ」。(この部分、P58)

 

 これは紛れもなく「色」だ。

 

 そして、「ナワール」については、次のように語られている。(『定本』P58)

 「われわれは生まれた時は、それにそれからしばらくの間も、完全に〈ナワール〉なのだ。けれども自分が機能するには、その補完物が必要だと感じられる。〈トナール〉が欠けているのだ。そしてそのことがわれわれに、早いうちから、自分は不完全だという感覚を与える。そこで〈トナール〉が発達しはじめ、それが我々の機能にとってきわめて重要ものになる。あまり重要なものになるので、それは〈ナワール〉の輝きをくもらせてしまい、〈ナワール〉を圧倒してしまう。」

 「われわれが完全に〈トナール〉になってしまったときから、われわれは、生まれた時からつきまとっていた不完全さの感覚をつのらせていくばかりなのさ。この感覚はわれわれに、完全さをもたらしてくれる他の部分(筆者注:「ナワール」が示唆されているように思う)が存在するということをささやきつづける。」

 「〈トナール〉はその利巧さによってわれわれの目をくらませて、われわれの真の補完者である〈ナワール〉の、ほんのわずかな感触でさえも忘れさせようとするんだ」。

 「〈ナワール〉とは、この〈トナール〉という島をとりかこむ大海であり、他者や自然や宇宙と直接に通底し「まじり合う」われわれ自身の本源性である。」(この部分、著者・真木) 

 「〈トナール〉もまたその機能性によって、われわれの内なる〈ナワール〉を侵略し、抑圧し、包摂してゆく。あるいはむしろ、この言葉(ロゴス)による内的な世界分割が完了してしまった時代をわれわれは通常生きる。」(この部分も、著者真木)

 

 「ナワール」が「空」であることもまちがいない。

 

 そして、インディオ文化では、知者は自分の「トナール」を旅立ち、「ナワール」を獲得するに至るのだが、そこにとどまることなく、新たなる「トナール」をもってこの地上に舞い戻ってくるというストーリーが描かれている。此岸から彼岸という往路のあとに、彼岸から此岸へという復路が想定されているのだ。

 このことは、「般若心経」において「色即是空」のあとに、直ちに「空即是色」と続くことの含意と照応すると考えられる。

 このことについて本書にこうある。(『定本』P144)

 「彼が自分の〈トナール〉に戻ってきたとき、それは昔の〈トナール〉でないことに気付く。幼虫の世界と蝶の世界がおなじ世界ではありえぬように、彼は永久にふるさとにはかえらないのだ。」

 「「人間は学ぶように運命づけられておるのさ」。ドン・ファンが言う。」

 

 一般的に東洋思想といわれている考え方は、アジア、中東にとどまらず、アメリカ大陸原住民にまで共有されている考え方であった。

 このような事実を前にすると、われわれの西欧文明を起源とする近代思想のほうが、人類思想史においては、特殊、ローカルなものなのではなかったかという思いにもとらえられる。

 

 さて、「気流の鳴る音」は以上のような雑学的知識にとどまることなく、現代文明の人類史における客観的位置を、すなわち我々の思考パターンの人類史における特殊性を、鋭く分析、指摘するものである。

 本書が刊行された時(1977年筑摩書房)、すでに就職し社会人となっており、真木悠介(見田宗介)を学ぶのを逸した「団塊の世代」、そして本書において1つの課題として設定されている「老い」の克服という課題にまさに直面している「団塊の世代」に、本書を一読することを特に勧めたいと思う。