2023年9月22日

 

 「抑止力」とは、「相手国が先制攻撃を仕掛けてきた場合に、相手国に甚大な被害を与えることができる武力で報復することを、相手国に事前に示すことによって、相手国の先制攻撃の意欲をくじく目的で、当該武力を保有すること」をいう。

 この「抑止力」としての「武力」は、したがって、大きければ大きいほど機能的・効果的、ということになる。

 すなわち、攻撃対象は、敵基地にとどめるよりも、一般住民が居住する大都市としたほうが、「抑止力」としては大きい。

 また、保有兵器は、「非核通常兵器」よりも「核搭載ミサイル」のほうが、「抑止力」としては大きい。

 そして、「抑止力」としての「武力」は、相手国の先制攻撃に対応して行使するものであり、こちらからの先制攻撃に使用するものではないことになっているが、相手国にとってはそれが先制攻撃に使用されないという確証はなく、相手国はそれが先制攻撃に使用される可能性を計算に入れて対応せざるをえないという結果となる。

 すなわち、相手国は、「抑止力」のためとされる「武力」が先制攻撃に使用されないように、こちらと同じ論理で、「抑止力」としての「武力」を保有・強化するように対応することになる。

 このことの連鎖によって、「抑止力」の論理は、際限なき「抑止力」の「軍拡競争」を引き起こすこととなる。

 今日までの米ロ間、また米中間の軍拡競争が端的にこのことを立証している。

 そして、米ロ、米中の直接軍事衝突が発生していないという事実は、「抑止力」の一定の効果を示すものと考えられる。

 

 さて、日本は従来、「抑止力」については、アメリカの核の傘に入るというかたちでアメリカに依存してきたが、新しい防衛力整備の考え方においては、「敵基地攻撃能力の保有」というかたちで、みずからも「抑止力」を保有するという方針に転換し、「拡大抑止」とこれを称している。

 しかし、そもそも、日本がアメリカの傘を離れて、単独で機能的・効果的な「抑止力」を保有することは、その国力からして、不可能である。

 したがって、日本が保有するとした「抑止力」とは、単独・自立的な「抑止力」ではなく、従来のアメリカ依存の「抑止力」の一部分有としか考えられない。

 すなわち、日本の「敵基地攻撃能力の保有」「拡大抑止」とは、米ロ間あるいは米中間での「軍拡競争」への米側サイドに立った部分的参画である。

 そして、部分的参画とはいえ、「抑止力」の「軍拡競争」が際限なきものとなるという論理の中に、みずから身をゆだねるという判断を下したことになる。

 「敵基地攻撃能力」を「抑止力」であるがゆえに、すなわち先制攻撃を意図するものではないがゆえに、合憲であるという解釈からすれば、日本が分有する「抑止力」の範囲を制限する論理は、もはや憲法には存在しない。

 「敵基地攻撃能力」が「大都市攻撃能力」に拡大することも、「非核通常兵力」から「核搭載ミサイル」に転換することも、憲法論からはこれを阻止することはできない。

 

 十分な議論のないまま、日本の安全保障政策はここまで進行してしまっている。

 おそらく、日本の関係者の間で、暗黙のうちに、①「抑止力」が永久的に機能すること、②「抑止力」が破れても、米側同盟が最終的に勝利すること、③米側同盟に「正義」があること、④これまでの米戦略の中での分担という発想以外は考えられないという過去踏襲思想、以上のような考え方が同床異夢的に併存しているのであろう。

 そして、この根拠乏しい、博奕的な安全保障政策の転換を図るバネが、わが政界には見出しがたい。事態は深刻である。