2023年9月7日
((本編もまた)素人議論で恐縮ですが‐‐‐)
「お化け・幽霊」を「非存在」とするのは常識的なところであろう。
光の伝達を媒介する物質として存在が仮定された「エーテル」は「非存在」であることが明らかになった。
ニュートン物理学が成立する前提となる「絶対空間・絶対時間」が「非存在」であることもアインシュタインの相対性理論で明らかになった。
これらは「人間の頭の中で想定されただけのもの」として「非存在」とされるものである。
(注:「非存在」と「価値・効用・意味」の有無は無関係である、念のため。)
これに対し、その客観性が疑いないにもかかわらず、ある立場の人たちから「非存在」とされるものがある。
例えば「温度」がそれだ。氷、水、お湯、水蒸気、それぞれ温度があるが、それらを構成している分子H₂O、それ自体には「温度」はない。
分子の活動状態を人間が知覚して、それを「温度」としているのである。
分子の活動状態という実際の「現象」が確かにあるのだから、「温度」を「非存在」として、「お化け・幽霊」と同一視することは忍びないという立場は、当然に考えられる。
しかし、「ファンダメンタリストたち」にとっては、「存在」という名は、宇宙を構成している究極の「存在」に対して与えられるものであって、分子などというマクロな「現象」に対して「存在」という名は到底与えられないとされる。
この「ファンダメンタリストたち」によれば、「温度」も「音」も「色(カラー)」も「非存在」ということになる。「味」も「香」も同類だ。
例に挙げたこれらは、人間の感覚器官とマクロな「現象」との相互作用で発生する「現象」である。
すなわち、人間がいなければ、人間の感覚器官がなければ、それらの「現象」は無い。
人間中心主義の立場から選び出された「現象」でしかないのだ。
「ファンダメンタリストたち」の、それらは「存在」ではないという言い分はそういうことのようだ。
2種類の「非存在」は、いっしょにされて「幻想」などとよばれ、少なくとも「現象」ではある後者の「非存在」には気の毒のような気がする。
2種類の「非存在」を区別するために、前者の「お化け・幽霊」の仲間を「無現象非存在」、後者の「温度」の仲間を「有現象非存在」と呼ぶことにしよう。
「有現象非存在」は、究極の「存在」によって演じられる「現象」である。
したがって、「有現象非存在」の内容は、すなわち具体的に何が「有現象非存在」であるかは、何が究極の「存在」とされているかに依存することとなる。
その結果、「有現象非存在」の内容は、究極の「存在」が究明されるにしたがって変わる、すなわち歴史的に変わることになる。
「存在」とされていたものが、科学の発展によって、「非存在」にその地位をおとしめられることになる。
すなわち、かつて「地・水・火・風・空」が究極の存在だとされた時代もあり、たぶんその時代の「ファンダメンタリストたち」はゆるかっただろうから、「存在」とされたものは多種であったのだ。
それが現代では、究極の存在は、分子も原子もすっ飛ばして、素粒子だということになっている。
そうなると、そのような見解に接したことはないが、分子も原子も、素粒子が演ずる「現象」ということで、「有現象非存在」と位置づけられることになってしまう。
そして、現在何種類かある素粒子は、物理学者の人たちの懸命の努力により、早晩、究極的な「1つの何か」に統合されることになるであろう。
そのとき、「存在」という名はその「1つの何か」に対して与えられることになり、その他は「無現象非存在」か「有現象非存在」だということになる。
現在でもそうだが、究極の「存在」は人間が直接知覚できるものではないから、人間が知覚するものはすべて「非存在」だということになる。
人間が知覚するのは、たとえそれが外見的には個物であっても、「存在」ではなく「現象」なのだ。
「存在一性論」という、様々な宗教が究極的に共有している神秘思想が、最終的に正しかったということになる日は近い、と筆者には思われる。
さて、「時間」「空間」が問題になる。
「時間」「空間」が「存在」として生き残る可能性はすでに皆無といえるだろう。
「時間」「空間」にとっては、「無現象非存在」か、「有現象非存在」か、が残る問題であり、「無現象非存在」に軍配は上がりつつあるのではないだろうか?
以上が人間にとって意味するところは何であろうか?
制約が何もなくなって、あらためて、人間の立場からの宇宙の再解釈が、そして人間社会の再編成が可能となるような時代が来るような気がする。
この予感は、根拠をもたない、単なる「気分」である。
なお、以上とは別レベルのこととして、「存在」「非存在」のまわりにはそれに似たことばがたくさんあり、それぞれのことばの意味するところが不明確という問題がある。
「存在」側には「実在」「実有」「有」などがあり、「非存在」側には「無」「空」「虚」「仮想」「幻想」などがあって、概念があいまいなまま乱れた使用となっている。
(「存在」とされているものが実は「非存在」であることを強調しようとする社会的需要が大きいためなのか、「非存在」の側に語彙が豊富である。)
このため、これらのことばが使用されている場合、それはいかなる意味で使われているのかを慎重に確認しておかないと、議論はとんでもない所に行ってしまいかねない。
たとえば上記において「存在」「無現象非存在」「有現象非存在」と区分したように、他の区分の仕方もあるように思えるが、基礎的概念をきちっと整理するのは簡単にできるはずだ。
したがって、この問題は純粋にことばの乱れという問題でしかない。したがって、対処可能な問題であるはずである。
若者たちがこの分野に入門するにあたり、このことばの乱れによって無用の混乱を現に味わっており、放置しておけば入門者を減らしてしまうことになるのではないかと思う。
他国語のことは知らないのだが、日本語ゆえのハンディキャップがここにはあるのではないだろうか?