2023年9月1日
このところ、「時間」「空間」は人間がでっち上げた「観念」であり~もちろんとても便利なものだから大切にしているわけだが~「実在」ではない、という考えをもつに至り、ひとり喜んでいる。
何故、それがうれしいのかは、よくわからない。たぶん、反権威、反常識、反秩序をうれしいとする卑しい感情なのであろうと思っている。
さて、このたび、このような卑しい筆者に頼もしい味方が現われた。
竹村牧男著「唯識の構造」(春秋社)にそれはあった。
古代インド・仏教の世界に「アビダルマ」というのがある。
「ダルマ」は「法」と訳され、いろいろな意味があるようだが、取り敢えずこの世の「存在」あるいは「現象」と考えておいていいように思う。
「アビ」は「対する」というような意味のようで、「アビダルマ」とは「この世の『存在』あるいは『現象』の研究」というような意味であろう。
我々の科学でいえば、自然現象及び心理現象並びにそれらについての人間の情報処理システムをその対象としている感じである。
いくつかの「アビダルマ」があるようだが、「唯識派」の「アビダルマ」は、その「法」を分類して「五位百法」としている。
「法」が100あるとし、それを大きく5つ(「五位」)に分けているのだが、分類基準は筆者にはよくわからない。
その「五位」の中に「不相応法」というのがある。(他の4つは「心王法」「心所法」「色法」「無為法」である。)
「不相応法」というのは「相応じるものがない法」という意味のようで、自然現象にも心理現象にも、それに対応する「実」がない「法」、すなわち観念的なものという意味のようである。
「唯識派」は、そもそも「三界虚妄」として一切の「実在」を認めない立場であり、「百法」はすべて「実在」ではないはずなのだが、そのなかでも「不相応法」は特に「実」がないと分類されているのである。
この「実在」でないということに、どういうレベルの差があるのか、筆者にはまったくわからないが、とにかく、「不相応法」に24の「法」が属しており、それらの「法」の「虚妄」であるレベルは、他の「法」に比べてはなはだしいとされていることになる。
そして、やっと本題となるが、この「不相応法」に「時」という「法」と「方」(注:「空間」を表わしていると考えられる。)という「法」が属しているのである。
「唯識の構造」にはこうある。(p109)
「「方」(注:本文にあるサンスクリッド語は省略)は、東西南北四維上下の位置(注:四維は4つの隅という意味か)、すなわち方角である。有為法(注:因縁によって生滅を繰り返す諸存在、諸現象)は、それぞれある位置を占める、その方位に仮に立てたもの。」
「「時」(注:同上)は、時間のことで、有為の諸法の因果相続の上に仮立したもの。大切なことだが、仏教では、時間の中に諸法が相続すると考えず、諸法の因果相続の上に時間を仮立すると考えるのである。」
「仮に立てたもの」と断定されているだけではあり、それ以上の説明、何らかの証明があるわけではないが、古代インドでこのようなことが考えられていたのである。
人間が生活する環境世界の基本的枠組みと考えられる「時」「空間」の「かりそめ性」をしっかりと把握してくれていたのである。
誠にありがたいことと感謝しないではいられない。
なお、この「不相応法」に同じく分類されているものの中には、「生」「老」「住(注:安定状態の意味か)」「無常(注:滅と同じ意味か)」が入っており、「有為法の始終に仮立した四相」とされている。
すなわち、「生」「老」「住」「無常」とは、因縁によって生滅を繰り返す諸存在、諸現象に仮に始めと終わりの印を付けたようなもの、例えれば、学習にけじめをつけるための学校の始業式と終業式のようなもの、登山シーズンをいちおう画するための山開き、山じまいのようなもの、ということになる。
これまた、「老」「無常(滅)」を迎えつつある我らにとって、ありがたいことではないか。