2023年8月21日

 

 韓国人の有名DJ女性が日本の野外コンサートで胸をつかまれるなどしたというセクハラ事件について、広く報道された現場の映像からして、被害女性の刺激的な服装、また観客のところに警戒心なく近寄っていった様子などから、被害女性側にも責任があるという考えが、筆者の根拠なき推定からすれば、我が日本では、男女の差なく、7~8割いるのではなかろうかと思う。

 本件は、加害者を特定した上で刑事、民事の裁判になるであろうから、最終的には裁判所の判断にゆだねられることになると思われる。その前に司法が本件を立件するかどうかという問題がある。また、当事者間での示談で処理される可能性もある。

 いずれにしろ、本件は局面局面でマスコミの話題に取り上げられ、活発な議論を呼ぶことになるであろう。

 

 さて、筆者は直観的には被害女性側にも責任があると思ったが、ちょっと待てよ、という気が起きた。

 被害女性側に責任があるという論理は、女性の服装に厳しい掟を要求するイスラム原理主義の論理と同じ論理ではないか、ということに気がついたのだ。

 男性に劣情を惹き起こさないために女性に制約を課す必要があるという論理だ。

 直ちに程度の違いを考えよ、という反論が予想される。

 しかし、どのようなことが男性に劣情を惹き起こすかは文化の問題であって、絶対的な基準があるわけではない。

 日本においてもこの半世紀ぐらいの間にその事情は大いに変わってきたはずだ。

 問題は、だから、程度の問題に解消すべきではなく、男性に劣情を懐かせないように女性の服装に制約を課すべきだという論理を許容するかしないか、ということが判断されなければならないのだ。

 これまでイスラム原理主義の女性差別を批判し、アフガニスタンでの女性のおかれた立場に涙してきたのであれば、その考え方を貫徹し、本件において被害女性側にも責任ありとの考え方は差し控えなければならない。

 それが自然な感情に反するならば、まちがっているのはその自然な感情のほうにあると考え、論理の要求するところに従って自己改造を図るべきなのである。

 それが社会的に生きる、ということである。

 我が日本の健全な民主主義の発展のために、あいまいな、喧嘩両成敗的な決着が図られないことを切に望む。