2023年8月18日
一般常識では理解しがたい事件の背景について、具体的な証拠がないまま、いろいろな仮説が語られているようだ。
筆者は、これから述べる仮説を、事件直後からいだいていたが、具体的な証拠があるわけでもないので、それをオープンにするのを控えていた。
しかし、様々な仮説が無責任に氾濫する状態を見て、もはや控えている意味もなかろうと判断するに至った。
娘は精神障害であった。その殺人願望、頭部切断願望はその精神障害によるものであった。
一方、精神科医の父親と母親は一貫して正常な判断力を有していた。
娘が精神障害になった原因について、両親は自分たちに責任があると感じていた。
過保護原因説があり、娘が精神障害になった原因についてまでは、その可能性は大きいと思う。
しかし、事件それ自体までを過保護によるとすると、両親が正常であったとはいえなくなる。その場合は両親も狂ってしまっていることになる。
精神科医としての父親の判断は、娘の人格を維持するためには、娘の話に付き合うこと、娘に寄り添い続けることが必要というものだった。
精神障害というものについて、自己の人格を守るための本人の無意識の緊急避難的対応、しかしその対応が世間とは調和し得ないもの、という理解であったと考えられる。
そして、本人の緊急避難的対応を全面的に阻止すれば、もはや本人は自己の人格を守る方途を失い、決定的な人格崩壊に至る、と考えていたと思われる。
このような考え方は精神障害の治療として通常のものであろう。
そして父親は、娘の異常願望を知り、その実現を阻止して娘を決定的な人格崩壊に至らしめるか、殺人・遺体損壊という犯罪者にするか、という二者択一を迫られ、後者を選択したのだ。
そして、父親はその選択で母親を説得したのであろう。母親は父親の選択に同意した。
これを過保護と言えば過保護ではあるが、過保護と言い切ってしまえば、父親の精神科医としての判断という要素を無視してしまうことになる。
以上が筆者の仮説である。
娘も両親も事実上黙秘を続けている模様である。それが貫かれれば、事件の背景は永遠の謎とならざるをえない。
もろもろの仮説はすべて仮説のままとなる。
その仮説群の中に「父親による治療」説を入れておきたい。